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野のオリーブの接ぎ木

野のオリーブの接ぎ木
大坪章美

ローマの信徒への手紙 11章17-24節

預言者イザヤは、エルサレムで生まれ育ち、エルサレム神殿や、王宮と何らかの関係がある生活を送っていたようであります。このイザヤに主の言葉が臨むのです。イスラエルの王と、民とに対する主なる神の審きの言葉です。10:33節には、「見よ、万軍の主なる神は、斧をもって、枝を切り落とされる」と、ダビデ家の王国を襲うであろうとの預言なのであります。

然し、主なる神様の言葉が、審きで終わることはありません。審きが行われても、神様の救いの御業が滞ることはないのです。イザヤ書11:1節には、主なる神の力強い言葉が、預言者イザヤの口を通して語られます、「エッサイの株から、ひとつの芽が萌え出で、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる」との預言がなされたのです。

預言者イザヤは、こうして、エッサイの木の根から、第二のダビデがイスラエルの繁栄をもたらす、との預言をいたしましたが、使徒パウロは、ローマの信徒への手紙で、オリーブの木の話を始めています。17節で、パウロは、「しかし、ある枝が折り取られ、野生のオリーブであるあなたが、その代わりに接ぎ木され、根から豊かな養分を受けるようになったからと言って、折り取られた枝に対して、誇ってはなりません」と、記しています。パウロが、ここで語りかけている相手は、異邦人たちです。パウロは、この話を始める前に、ユダヤ人たちが躓きの石に躓いて、主イエスをメシアと認めようとしないことから、逆に、異邦人たちに、先に救いがもたらされる結果になっている、と述べています。ユダヤ人たちにとっての躓きの石とは、彼らが、「信仰によってではなく、行いによって義とされる」という考えを持っていたことでした。

パウロは、17節で記しています。“ある枝”とは、純正の、正統なオリーブの木の枝のことです。純正な、オリーブの木のある枝が、折り取られて、その代わりに、野生のオリーブであるあなたが、接ぎ木されたからと言って、折り取られた枝に対して、誇ってはならない、と戒めています。

パウロは、このような譬えを前提として、異邦人キリスト者に向かって、三つの点で警告を発します。まず第一の警告は、「折り取られた枝に対して、誇ってはなりません」と教えています。そして、ここに、二つ目の警告が語られます。20節です、「思い上がってはなりません。むしろ、恐れなさい。」と警告しています。

主なる神様は、神様がイスラエルの民と契約された純正のオリーブの木からさえも、不信仰な者の枝は、折り取ってしまわれるのです。ましてや、純正でもないあなた方、野生のオリーブであるあなた方が、ユダヤ人のように不信仰に陥ったならば、当然、純正のオリーブの木に接ぎ木することは、断念されるであろうと言っています。そして、パウロは、三つ目の警告を発します。23節です、「神様は、彼ら、即ち純正のオリーブの木の枝から折り取られたユダヤ人たちを、再び接ぎ木することがお出来になるのです」と言っています。ユダヤ人たちが、イエス・キリストを信じれば、再び彼らを、純正のオリーブの木に戻し、接ぎ木されると言うのです。しかも、その場合には、もともと、彼らは純正のオリーブの木の枝であった者たちですから、私たち異邦人キリスト者、つまり、野生のオリーブの枝に比べて、はるかにスムーズに接ぎ木されることでしょうと、優位性を強調しています。

このように、私たち異邦人キリスト者が、自らの力によらず、一方的な神様のご愛によってイスラエルの純正のオリーブの木に接ぎ木され、豊かな滋養と祝福に与っているのは、ただ神の奇跡とも言えるものです。

そして、このイスラエルの民を表す純正のオリーブの木は、イザヤが預言したエッサイの切り株、その根を思い起こさせます。紀元前1千年のはるかな昔から連綿として続いているダビデの血筋です。

私たち異邦人キリスト者は、神様の一方的な慈しみと憐れみとによって、この神との救いの契約を交わしたイスラエルの民、つまり純正なオリーブの木に接ぎ木された、新しいイスラエルの民なのであります。

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