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あなたを見守る方

あなたを見守る方
大坪章美

ユダの手紙 17-25節

詩編121篇は、表題に“都に上る歌”記されていますように、イスラエルの民が、地方からエルサレム神殿への巡礼の旅に出発する際の、祈りの歌であります。地方からエルサレムまでの長い道のりを、野を越え、山を越え、幾日も野宿を重ねて、やっと神殿へ辿り着くのです。その間には、盗賊や野獣、怪我や病いなど、どのような、予期せぬ危険が待ち受けているか分かりません。これから旅立とうとする者が、不安を口にすると、見送りに来ている一族の親兄弟、姉妹、親族は、切なさを感じます。このような、切なさ、重苦しさを吹き飛ばすかのように、旅立つ本人に、力強い答えが返って来ます。2節です、「わたしの助けは来る。天地を造られた主のもとから」。そして、旅立とうとする息子を気遣う父親は、主なる神ヤハウェに向かって、執り成しの祈りを始めます。3節です、「どうか主が、あなたを助けて、足がよろめかないようにし、まどろむことなく、見守ってくださるように」と祈るのです。この巡礼者である息子の父は、神様が息子の命、あるいは人生の上を覆って下さり、守り通して下さる、という確信を証しているのです。

それから、随分と時代が下りまして、イエス様が地上に来られた後の紀元80年代の頃です。地中海世界に数多く存在していましたキリスト教会で、ユダの手紙が読まれていました。ユダは、ようやく立ち上がりかけているキリスト教会に、異なる信仰を持ちこんで、教会を分裂させようとする、偽教師たちの教えに影響されないように、教えようとしています。彼ら、偽教師たちは、自由な振舞いを主張するグノーシス主義者で、自らを、“グノーシス”つまり、知識を持った人間であると称して、教会の道徳的な抑制を超越して、神様の恵みを悪用するといった、乱脈な生活を送っていました。主の兄弟ユダは、グノーシス的で、自由な振る舞いを主張する異端の教師の影響に染まっていないキリスト者に対して、取るべき態度を示すのです、「あなた方は、最も聖なる信仰を拠り所として生活しなさい。聖霊の導きのもとに祈りなさい」と勧めます。

ユダは、手紙の最後に、神への賛美と、祈りを記しています、「あなたがたを、罪に陥らないように守り」と祈ります。“あなたがた”とは、このユダの手紙の読者たちです。この手紙を読む人たちが、主なる神によって守られ、足を踏み外すことが無いように、偽教師の吹き込む異端の教えに影響されないように、と神様に祈っています。教会は、唯一の神様を礼拝します。人間を救うあらゆる力は、この神様から発するのです。キリスト者は、教会の頭である主、イエス・キリストを通して、この唯一の神を礼拝し、従うのです。「わたしたちの主、イエス・キリストを通して」という祈りの言葉によって、主なる神様と、私たち信仰者との交わりが、イエス様の仲介によって成り立つことが強調されています。私たちは、旧約聖書と新約聖書から学んできました。詩編121篇で、息子を巡礼の旅に送り出す父親は、旅の途中での様々な苦難が、主なる神によって守られるであろうことを、確信いたしました。巡礼者の足がよろめかないように、昼も夜もまどろむことなく、天地を創造された方が見守っていて下さると信じたのです。一方、主の兄弟ユダも、ようやく立ち上がり始めたキリスト者の集会に、分裂をもたらそうとする偽教師、異端の教師たちとの戦いに勝利するように、主なる神に祈りを捧げています。「あなたがたを、罪に陥らないように守り」と祈るのです。そして、“罪に陥らないように”という言葉の元の意味は、“躓かないように”と言う意味なのです。まさに、ユダも、巡礼者の足がよろめかないようにと祈られたと同じように、キリストを信じる者たちが、偽教師たちに躓かないように、と祈っているのです。そして、この祈りは、単に巡礼者の旅の安全祈願あるいは、私たちキリスト者を異端思想から守るための祈りには留まりません。この天地を創造された主なる神は、その後も、まどろむことなく、被造物を見守っておられ、主を賛美する私たちの日々の歩みをご計画の中に入れて下さり、そして、必要な時に介入して下さるのです。

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