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異邦人たちの救い

異邦人たちの救い
大坪章美

使徒言行録 10章34-43節

マラキ書は、紀元前5世紀の前半頃に書かれました。預言者マラキは、イスラエルにおいて、正しい神礼拝が行われていないことを叱り始めます。1:6節には、「子は父を、僕は主人を敬うものだ。しかし、私が父であるなら、私に対する尊敬はどこにあるのか」と、主なる神の非難が記されております。神は二重の意味で、神殿祭司たちを非難されるのです。まず、祭司たちが捧げる、いけにえとしての動物です。神は、エルサレムの神殿の祭司たちは、“傷のある動物を捧げている”と、問い詰められるのです。そして、二つ目は、祭司たちの心です。祭司たちは、実のところ、神殿に納入されたいけにえの動物が、祭司たちと関係の深い権力者の場合には、傷があっても見逃すことが多かったのです。ですから、マラキは、祭司たち伝えるのです。7節です、「“主の食卓”は、軽んじられてもよいと見做すその心こそ、主なる神を軽んじているのだ」と。このような状況の中で、神は、怒りを露わにされます、10節です、「あなたたちのうち誰か、わが祭壇にいたずらに火が点じられることがないよう、戸を閉じる者はいないのか」と言われました。神はこのように仰って、いけにえを捧げるために必要な門を閉じてしまった方が良い、と宣言されたのでした。しかし、エルサレム神殿で、イスラエルの民の罪を贖う儀式が停止してしまいますと、民が罪の赦しを乞うことも出来なくなり、主なる神の名を讃える場が無くなってしまいます。このようなエルサレム神殿の祭儀が停止することへの不安を打ち消すかのように、マラキは語り出します、「日の出るところから、日の入るところまで、諸国の間でわが名は崇められ、至るところで、わが名のために香がたかれ、清い捧げ物が捧げられている」。主なる神の名は、やがて、諸国の至るところで呼ばれ崇められるようになるであろうとの預言であります。だから今、エルサレム神殿の祭司たちが捧げる、汚れたいけにえの動物などは、捧げて欲しくないと主なる神は仰っているのです。そして、このマラキが預言した、「諸国の間で、わが名は崇められ、至るところでわが名のために香がたかれ、清い捧げ物が捧げられるであろう」という御言葉が、現実のものとなっている事が、使徒言行録10:34節のペトロの言葉で分かるのです。ペトロは、こう言っています、「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どんな国の人でも、神を畏れて、正しいことを行う人は、神に受入れられるのです」。ペトロのこの言葉は、カイサリアに居るコルネリウスというローマ軍の百人隊長を訪問した時に、語りかけた言葉です。ユダヤ人であるペトロが、異邦人であるコルネリウスに対して、「神は、人を分け隔てなさらないことがよく分かりました」と言っている事は、裏を返せば、その当時のユダヤ人社会においては、“人を分け隔てすること”の方が常識であったことを窺わせます。ペトロがこのような厳しい律法に違反してまで、異邦人の百人隊長コルネリウスを訪問するに至ったのは、そうせざるを得ない事情、つまり、神様からの啓示があったからなのでした。ペトロは、続けて語ります、「どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです」。ここで、言われていますのは、神様の前では民族も、性別も、出身も問題ではなく、ただ信仰と正義だけによって、神様に受け入れられるということを強調しています。そして、43節で、次のように述べたのです、「また、預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられると証しています」。こうしてペトロは、そこで御言葉を聞いている一同の上に、聖霊が降るのを見て、そこに居る人々に洗礼を授けたのです。マラキ書の1:11節には、「日の出るところから、日の入るところまで、諸国の間でわが名は崇められる」との預言が記されており、だから、エルサレム神殿の、汚れたいけにえを捧げ物とする祭儀などは続けたくないとの神の御言葉が記されておりました。それから五百年程の時が流れて、イエス様がメシアとして、地上に来られたことによって、このマラキの預言は成就したのです。

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