過去の説教

御言葉を行う人

御言葉を行う人
大坪章美

ヤコブの手紙 1章19-25節

詩編94篇の詩人は、迫害の中にあって、ただ、神にのみ信頼し、救いを求めます。迫害する者たちとは、神を恐れることもないイスラエルの政を行う者たちのことを指しています。この詩人は、無法な、神に背く行為を繰り返すイスラエルの支配者たちに対して、早く目を覚ますように忠告します。8節以下です、「民の愚かな者よ、気づくがよい。無知な者よ、いつになったら目覚めるのか。耳を植えた方に聞こえないとでも言うのか。目を造った方に見えないとでも言うのか」。それにしても、このような騒然とした社会情勢の中で、この詩編の詩人の心だけは、澄み渡り、落ち着き払っています。詩人は、12節で歌っています、「いかに幸いなことでしょう。主よ、あなたに諭され、あなたの律法を教えて頂く人は」。この詩人は、“主に諭され、主の律法を教えて頂く人は、幸いな人”と歌っているのです。このように、主に、主の律法を教えて頂く人は、苦難が襲ってくるときにも、常に平安が与えられるのです。この詩人が生きていた頃から、600年以上もの時を経て、地上にイエス様が誕生され、歴史は、新約の時代になりました。イエス様が十字架の上に、人間の罪の贖いの為の死を遂げられ、三日目に復活され、天に昇られた後は、神様は、御言葉によって私たちを生かし、私たちを浄めて下さっています。ヤコブの手紙の作者、主の兄弟ヤコブは、イエス様のみ言葉の礎であります“律法”を、詩編119篇の43節に見出しています。そこには、次のように歌われています、「真実をわたしたちの口から奪わないで下さい。あなたの裁きを待ち望んでいます」。ヤコブは、今日お読み頂きました個所の3行前、18節で、「御父は、御心のままに、“真理の言葉”によって、私たちを生んで下さいました。それは、わたしたちを、いわば、造られたものの初穂となさるためです」、と記しています。ヤコブが言っています、「真理の言葉によって、わたしたちを生んで下さいました」というのは、イエス・キリストによる福音がもたらされたことを言っています。福音のおとずれにより、私たちは、もはや、これまでのように罪と死の奴隷ではなくなったのです。このような背景のもとで、ヤコブは、私たちが神様から与えられた最も大いなる賜である“御言葉”について、誤って理解することがないように、指導をしてくれるのです。この御言葉について、ヤコブは決定的に必要なことを、私たちに命じます。22節です、「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聴くだけで終わる者になってはいけません」。ヤコブは、御言葉を聞いて、その真理を理解したとしても、それでは不十分、と言うのです。むしろ、“聞いたことを、実行に移すか否か、に一切がかかっている”と迫っているのです。ヤコブは、印象的な譬え話で語ります、23節以下です、「御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は、生まれつきの顔を、鏡に映して眺める人に似ています」。

私たちが鏡を見ると、自分の生まれつきの顔が写っています。然し、大抵の人は、鏡から目をそらすと、先ほど鏡に映っていた自分の顔の表情や、輪郭など、記憶から消え去ってしまいます。鏡から目をそらすと、もう覚えていないのですから、何の成長もありません。律法、即ち、神の御言葉と言う鏡に、自らの罪の身を映し出しても、そこで考えることを止めてしまい、目をそらすならば、御言葉を聞くだけで行わない人、と同じだ、と忠告しているのです。では、どうすれば良いのでしょうか?ヤコブは、その答えを25節に記しています、「然し、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく行う人です」。ここで、ヤコブが記している“自由をもたらす完全な律法”とは、イエス・キリストの御言葉を意味します。そしてヤコブは、御言葉を行う人に、祝福の言葉を残しています、25節の終わりの個所です、「このような人」即ち、「主イエスの御言葉を一心に見つめ、守る人」は,「その行いによって、幸せになります」と記しています。“幸せになります”という言葉は、未来形です。御言葉を行う事によって、必ず幸せになるでしょうと約束をしてくれているのです。

アーカイブ