心の宮潔め
大坪章美
ルカによる福音書 19章41-48節
イエス様は、ついに、エルサレムの都が一望できるところまで到達されました。そのとき、イエス様は、まだ誰も乗ったことがない、子ロバに乗って進んでおられました。弟子たちの群れは、これまでにイエス様がなさった奇跡の数々を思い起こし、声高らかに神を讃美し始めたのです。「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように」。しかし、この弟子たちの大声での祝福に、水を差す者たちが現れたのです。40節です、「すると、ファリサイ派のある人々が、群集の中から、イエスに向かって、『先生、お弟子たちを叱ってください』と言った」と記されています。彼らは、弟子たちが、あまりにもはしゃぎ過ぎると、ローマ帝国の官憲から弾圧を受けるのではないか、と恐れたのでした。これは、決して、エルサレムの人々が、イエス様のエルサレム入城を、歓迎していなかったことを、表しています。イエス様は、この頼みに対して、次のような謎めいたことを仰いました、「言っておくが、もし、この人たちが黙れば、石が叫びだす」。イエス様が仰った、「石が叫びだす」の“石”は、エルサレムの城壁や、エルサレム神殿の石垣の石を指しています。もしも、弟子たちの声を黙らせるようなことをしたら、代わりに、神の裁きによって破壊され尽したエルサレムの廃墟の石が、“イエスはメシアである”ということを証するだろう、と答えられたのです。この時のイエス様は、もう、ご自分がメシアであるということを、隠そうとはされなかったのです。しかし、いよいよ、目の下に、エルサレムの都を眺められた時には、この都のために涙を流されました。イエス様が、声をあげて泣き、言われたお言葉は、「もし、この日に、お前も平和への道をわきまえていたなら・・、」。「この日に」というのは、今、イエス様が平和の象徴である子ロバに乗って、エルサレムに入城された日のことです。しかし、これが叶えられることは、ないのです。結局、エルサレムの人々は、平和の王、イエス様のエルサレム入城を拒否したのです。イエス様の目には、神の裁きとして、エルサレムの町や神殿が、破壊されて炎上する光景が見えていたのです。イエス様は、このエルサレムの行く末を悲しみ、嘆かれ、声を上げて泣かれたのでした。その後、エルサレム市内に入られたイエス様は、エルサレム神殿の境内に入って、そこで商売をしていた人々を追い出し始められました。イエス様は、エルサレムの人々が悔い改めなければ、滅ぼされてしまう、ということを、行動で示し始められたのです。その行動が、神殿の聖別でした。こうして、今、私たちが知っている事実は、イエス様の預言どおり、紀元70年に、ローマ軍の司令官、ティトスによってエルサレムは攻撃され、神殿は炎上し、瓦礫と化してしまうのです。イエス様が宮潔めをなさったエルサレム神殿は、無くなってしまいました。イエス様は、もう宮潔めをなさることは無いのでしょうか?
イエス様は、今も宮潔めをなさっています。イエス様が、宮潔めをされる場所は、神殿、つまり神様の住まわれるところ、私達の体です。コリントの信徒への手紙一の6:19節以下において、パウロは、次のように記しています、「知らないのですか。あなた方の体は、神から頂いた聖霊が宿ってくださる神殿なのです」。私達の体には、イエス・キリストの霊が宿っています。私達の体は、“神殿”なのです。この私達の心にも、イエス様は、宮潔めを行ってくださいます。私達の心が、罪を犯し、神に背く行いをしても、イエス様は、悔い改めの心を起こして下さるのです。もし、そうでなければ、どうなるのでしょう。悔い改めることをしなかったエルサレム神殿と同じ運命にさらされることになってしまいます。イエス様は、そのようなことを、決して望んではおられません。望んでおられないどころか、私達のひとりでも、そのようなことになるのを、嘆き、悲しまれて、声を上げて、泣かれるのです。そして、そうならないように、前もって、私達の体に、悔い改めの心を起こしてくださるのです。私達は、悔い改めることによって、イエス様を心の中にお迎えし、永遠の命を、共に生きるように、なるのであります。