過去の説教

神の御顔のように

神の御顔のように
三枝禮三

創世記33章1〜10節 ルカ15章18〜20節

創世記33章3節<ヤコブはそれから、先頭に進み出て、兄のもとに着〈までに七度地にひれ伏した。〉

 功徳を積むための五体投地の礼という荒行があります。しかし、ヤコブの五体投地はそれとは全く違います。目前に現れたエサウは、ヤコブの裏切りに対する積年の憎悪と憤怒の塊だったはず。現に四百人もの手勢を率いての出迎えはヤコブー族を皆殺しにせんとする鬼の出現としか思われません。今さらヤコブに何が出来たでしょう。そのヤコブに残されたのが五体投地だけでした。七度身を地に投げ出してひれ伏すことは、七度罪を悔いてゆるしを求めること。そして、七度起き上がって進み出ることは、七度ゆるしを信じて進み出ること。それ以外ではなかったに違いありません。

 宗教改革の狼煙となった九十五箇条の提題の冒頭でマルチン・ルターは言っています。「キリスト者の生涯は全生涯が日毎に悔い改めでなければならない。」それなら、ヤコブの五体投地の歩みは私どもの倣うべき歩みでもあるのではないでしょうか。もちろん、これ見よがしにすることではありませんが、内なる心ぐみにおいては私どもも、七度地に身を投げ出してひれ伏しながら歩みゆく者であるより他ないでしょう。

 〈4節〉くエサウは走って来てヤコブを迎え、抱きしめ、首を抱えてロづけし、共に泣いた。〉

 エサウはまるで人が変わったようです。別人のようです。誰かに似ています。放蕩息子を迎えるあの父親にそっくりです。くそして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。〉(ルカ 15;20)そっくりでしょう?放蕩息子は「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません」それだけ言うつもりで帰ってきた。 ところが、父親はまだ遠く離れていたのに見つけて走って来たとある。何より威厳と体面が重んじられたユダヤ社会では長老格の年老いた父親はみだりに走らないものときまっていました。それが遠くから威厳も体面もかなぐり捨てて走って来て首を抱き、有無も言わせず接吻したのです。譬えですから細部は省かれていますが、エサウとヤコブのようにただ共に泣くよりほかなかったにちがいありません。これが赦しであり、和解というものでしょう。

 エサウとヤコブの間にもついにその赦しと和解が起こった。起こりえないことが起こったのです。どうしてこんなことが起こったのか。解りません。敢えて言うとすれば、七度地にひれ伏して罪を悔いゆるしを求めてきたヤコブに対して、七度を七十倍するまでゆるせと言われる主がエサウの背後にもいまして、エサウに働きかけエサウすらも変えてくださったのではないか。そうとしか言いようがありません。

 〈10 節〉くヤコブは言った。「兄上のお顔は、わたしには神の御顔のように見えます。このわたしを暖か〈迎えてくださったのですから。」〉

 これはヤコブの言い過ぎで、大げさ過ぎると言われています。 しかし、そもそも「神の御顔のように」とはいったい何事を指して言っているのでしょう。ヤコブは既にヤボクの渡しで挑みかかってきた得体の知れぬ妖怪の背後に祝福し給う神が隠れていましたことを経験しています。ところが今や、恐ろしい鬼の顔の背後に慈父の顔が隠されていたことを発見したのです。その神と慈父が重なって思わず「神の御顔のように見えるj と言うよりほかなかった。つまり、恐ろしい表の顔を破って、慈しみ深い裏の顔が啓かれ示された神の啓示の有り難さ、その喜びを、「神の御顔のように見える」と言ったのではないでしょうか。

 恐ろしい表の顔と裏の慈しみ深い顔という神の二重の顔は、キリスト者がおかれている信仰の現実です。表が破られ裏の御顔が啓示されるのは信仰に対してだけ。信仰だけが表の顔の背後に隠された御顔を拝することが許されるのです。実例の使徒言行録27章必読。

アーカイブ