過去の説教

神の光の中に

神の光の中に
土橋 修

ヨハネの手紙一 1章5-10

神を「はじめからあったもの」と言ったヨハネは、次いで「神は光である」(5)と告げます。前者は神の存在そのものを示し、後者は神の性質を明らかにするものです。

5節の語り出しに当り、ヨハネがこの消息・福音を語るに臨む意気込みが伝わってきます。即ち、これこそは「イエスから既に聞いていた」ところの消息だ、と言うのです。ヨハネは福音書1:14でも宣言しています。「言は肉となって、私達の間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」と。

イエスは自らの死に心騒ぐを覚えつつ、「光は、いま暫くあなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」とも、意気せき込む如くに語ります。

「神は光であり、神には闇は全くない」と言う限り、両者には妥協はないのです。それを許せば、真理はもはやなしです。光と暗闇は相入れないのです。「神との交わりに生きる」ということの厳しさを、そこに見るとともに、神なる光の中に生きることの幸いと喜びを、わたしたちは確実に持つことが許されるのです。

6節以下10節までの接頭語として、「もし(if)」がついています。各説とも「もし、以下の条件に相応しくなければ〜」と読み下して下さい。そうすれば、ヨハネの語ろうとするところが、一層よく理解される筈です。神の光の中を歩かなければ、闇の中を歩むことになり、言行不一致として真理をはずれることになります。主との交わりは勿論・兄弟同志の交わりも失われ、遂には、罪の赦しも潔めも、凡ての恵みを失うことになるのです。この「もし」は」強調されるべき一語なのに、残念ながら口語訳では欠けてしまいました。

「神との交わり」(6)と「互いの交わり」(7)との関係については、3節に於いて両者の緊密性が語られています。教会での交わりは、単に人間同志の交友関係ではありません。それ以前に、各人ひとりひとりが、神が独り子イエスを与え給うた程に、世を愛し給えりと言う(ヨハネ3:16)「神の愛」の信仰を体得してこそ成りたつものなのです。御父と御子との交わりを土台とした我々相互の交わり、これが合して一つとなる教会の交わり(コイノニア)が誕生するのです。「御子イエスの血による救いと潔め」(7)の信仰については、当時の教会にはイエスを、神の御子と信じない異端、異教がありました。(グノーシス派)。イエスを優れた人(ヨセフ・マリアの子)とは認めましたが、神の御子とは認めません。従って十字架の贖罪も認めず、十字架の死直前に、神の霊はイエスから脱け去っていたのであって、その死は普通の人の死であったと説くのです。ヨハネは真向から否と言い、「御子イエスの血」を、ここで敢えて強調するのです。「罪を公に言い表す」(9)の告白は重大です。一般的・法律上の罪や、道徳的・精神的は罪に止まりません。宗教的神信仰に立って、始めて知りかつ心中に記される罪責の意識が、今聖書で問われる問題です。ある人が「俯仰(ふぎょう)天地に恥じず」と言われても、なかなか腑(ふ)に落ちない。聞く人の腹に納得しがたいのも、罪意識の拠って立つ所が明確でないからでしょう。キリスト教の信仰に立って、それを言い切ることもかなり厳しいことです。しかし、御子イエスをも惜しまず、この世に捧げ尽くして下さる神を信じられる者にとっては、平安と心強さが、神の恵みとして不安を乗り越ええさせて頂けるのです。

神の光の中に歩むということは、暗闇の中に生きることを許さない、神の光の力強さと、神の愛と情熱の迫力を知れば、決して困難な道ではありません。独り戦うわけではありません。互いの交わりが、教会の愛と力となって、励まし支えとなるからです。

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