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現れた命の言

現れた命の言
土橋 修

ヨハネの手紙1章1節〜4節

一般的に言って、キリスト教に触れる人々の多くはエスの名句、美文を知ることから始まると思います。マタイ福音書の始め(5〜6章)に「山上の説教」が出てくるのも。大いに理由があるでしょう。それに続く「イエスの癒しの業数々(8〜9章)」にも、苦難の人生を経験した人々は、慰めや励ましと希望を我が身に感じ、求道の道を選んだかもしれません。

 しかし、それだけではもの足りません。或る時、主のもとを立ち去ろうとする多くの弟子が出た時、イエスは十二弟子に「あなたがたも離れて行きたいか」と問われ、ペトロは「主よ、わたしたちは誰のところへ行きましょうか、あなたは永遠の命の言葉を持っておられます」と答えました。私たちがイエスに出会い、ついて行くのも、彼のうちにある「永遠の命の言葉」に、心とらわれたからではないでしょうか。

 テキストはヨハネがイエスと出会った時の心境を物語ります。「初めからあったもの」とは出会いの対象のイメージです。それは創世記開巻劈頭の「初めに」を思い起こされます。創造に先立ち、永遠の昔よりあったもの神を指します。続いてヨハネの出会い体験を語ります。「聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたもの」とあります。それは単なる五感による感覚で終わるものではありません。聞くには聴くの意味も含まれ、見たに続く「よく見て」は観るの文字が相応しく思われます。武蔵も五倫の書で、「見の目弱く、観の目強く」と目付の力強さの違いを教えています。触れるも同様です。看護の心に「手当て」の愛が求められるゆえんです。イエスの癒しの奇跡は「その手を触れられる」時に起っています(マタイ8:15)。求める側も「この方の服の房に触れさえすれば」(同9:21)の願いが通じて、十二年間の長患いも癒されています。イエスというかたの内に、キリストの霊が漲っておられるからです。それが信仰の心を通じ、五感を超えて伝わるのです。

 「出会い」ということばにも、いろいろの意味合いがあります。「合う」とは二つのものが合って一つとなるの意。両者まだ個別の不完全さがあります。「会う」はうつわ物にふたを会わせる。たまたま集るです。「遭う」は思いがけぬ偶然性の強い時。「遭う」は災害・危険との出会いで、好ましからざる出会いです。「逢う」もみちでたまたま出会うですが、時には「逢引き」ともなります。

 キリスト・イエスとの出会いは、すでに明らかなように、ただ偶然の如くであって、はじめからの神の御摂理と導きの手によるものであること明確です。出会いの主体が己にはなく、神の御支配と導きの御手が先行するものです。たとえ我が意志で、選択したように覚えても、よくよく思いめぐらす時、初めに神ありきと思い知らされるのです。少なくともわが主と思っていた心は変えられ、見えなかった初めの神の御意志が、我を捉えて暫くは導かれ、変えられた我が、今ここに在ると知らされるのです。ある人は「真実の出会とは、その場に入って来た時とは、人間が変えられて出て行く人の変化」だと言います。我を主体とした彼が、そこで神を主体とする生き方の転化を遂げるのです。それが「悔改め」なのです。

ヨハネによる強烈な神秘体験が、今ここに取り上げられましたけれど、時に激しく、厳しいことを我に求められるわけではありません。心静かに、これまでの神の導きと、恵みを思いめぐらして、命の言イエスに頼り、み言に従う信仰を、祈りのうちに励んで行くことに尽きます。主のみ言が私を潔め給うのです(ヨハネ15:3)。信仰はみ言を聞くことに始まるのです(ロマ10:17)。十字架の言は、愚かに見えて、実は救の力なのです(1コリント1:18)。そして、遂には「神の変えられない、生ける言により、新に生まれるのです(1ペトロ1:23)」。

命の言は抽象ではありません。我が身と人生に現実的に現れ、具体的に光り輝くのです。ただ偶然を待つのではなく、深い祈りをもって主を仰ぎましょう。

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