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神の小羊来る

神の小羊来る
土橋 修

ヨハネによる福音書 1章29〜34

「キリスト者は二つの時間(現在と未来)に住める者」と言われます。この間には、終末の危機と救いの約束とが共にあり、悔改めと信仰の心が、神による平和を齎してくれるのです。太陽暦は日々闇の世界に向かいます。しかし私たちはアドヴェントを迎えて、暗黒の中に既に救いの主の来る光を先取りしようとしています。

四つの福音書は、それぞれイエスの御生涯を記しています。或人はこれをエルサレム神殿と四つの庭に譬えます。神殿の奥深くには神の至聖所があり、これに対して始めに「異邦人の庭」、次いで「イスラエルの庭」、更に特別な「祭司の庭」があり、ルカ・マタイ・マルコ各福音書が、以上の順序に相應すると言います。ヨハネはこれらに比して特別な性質を持ち、キリストの命に与る者が入り得る、至聖所の幕の中へと導かれると言うのです。ヨハネはその福音書の目的を記して言います。「イエスを神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」と(20:31)。

ヨハネ福音書はイエスに先立つ洗礼者ヨハネの活動から始めます。先駆者ヨハネと呼ばれ、最後の預言者たるゆえんです。その活動ぶりに人々の目は止まり、彼こそ期待のメシヤと読み取る人々が居りました。しかし。彼は問い質す人々に、イザヤの預言を引用し(40章)、「我は然らず、荒野で叫ぶ声」と返答します。「声」は「言(ことば)」を運ぶ器・道具の役割を負うものにして、預言者(神の代弁者)としての務めに励むのみと言うのです。

むしろ初め(1:1)に宣言した「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」を彼は後に来るイエスにあることを高凋し、自分は「その靴のひもを解くにも及ばない者」と言い切ります。翌日、あらためてイエスを指して、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(29)と、彼の神の子(メシヤ)たることを証しするのです。

「世の罪を取り除く」ことは、人に許される業ではありません。イエスに神性を認め、その力を信じて初めて言えることです。洗礼者ヨハネは先にイエスに洗礼を授けたとき、彼の上に聖霊の降るのを見ました(マタイ3:13-17)。「私は見た」と確信をもって(32、34)繰り返し証します。これに対し「わたしはこの方を知らなかった」(31、33)が2度繰返されます。「知らない」筈はない二人です。彼らは親戚同士です。その誕生も半年違いで生まれた仲です。肉に於いてはこれ程近く、知り尽くした仲にも拘らず、「知らない」とは不思議な言い分です。然し、霊的世界は全く別です。霊に於いて生きるということは、神の摂理の中に生きることです。而して、神を知り、神に知られたという信仰の世界は、神との間では確かな恵みの世界であり、誰はばかることのない自由な命の世界なのです。しかもこれを知った者同士の命の関係は、各々の信仰に比し互いに強く濃い世界を産むのです。ヨハネとイエスの関係、そして神とイエス、神とヨハネの関係の自由にして強じんな信仰を、まざまざと見させられる思いがします。肉は知らずとも霊は是を知ると。

イエスをメシアと信じることは、この世の知恵・知識によって得られるものではありません。それを神の御手の中に秘められていると言うべきかも知れません。「初めに言があった」(1:1)のことばについて、「著者ヨハネ-彼は雷の子と呼ばれた-が、我々に齎した雷である。人間の憶測の如何なる反対をも空しからしめる天来の声である」と言った方が居られました。洗礼者ヨハネはイエスの中に聖霊の力を見、真の命・力を読みとりました。イエスこそ後に来る方、我に優る方、我より先にありし人との告白を謙虚に示しました。そのうえで「世の罪を除く神の小羊」への力強い信仰を告白し賛美を捧げました。

アドヴェントを迎えて、自らの信仰を顧み、罪を懺悔しキリストとの出会いを迎えるに相応しい日々を祈りの中に過したく思います。神の霊を祈りつつ。

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