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神の日を待ちつつ

神の日を待ちつつ
土橋修

ペトロの手紙二 3章1-16節

本日は教会暦による最終主日となります。教会暦一年の前半は「キリストの半年」と呼ばれ、降誕に始まり、十字架・復活・昇天に到ります。後半を「教会の半年」と呼び聖霊降臨後の期節に入り、信仰生活と宣教を学ぶことになります。今キリスト教の福音に与り、教えの道を学び来り、終りの日を迎えて気づかされることは、人生・信仰生活の終りは如何に、ということです。神の御前に立つ日が訪れることは必然です。

ペトロの手紙は「迫害の書簡」と言われます。本書の目的は「最後の審判から救われるための備えとして、神の力により、信仰に守られるため」(I 1:5)と示されています。著作時の初代教会が受けた迫害は激しく、「火の試練」と呼ばれる中、信徒は「義の為の苦しみ」と受け止め、恥ではなく「むしろキリスト者の名誉」と解し、「喜び耐えて、進んで神を崇めよ」とすすめられました。前書ではこのように、現実の迫害下に具体的な忍耐と信仰の証しがアピールされています。後書もこれに続く中で、重ねて「聖なる予言者や使徒たちの語り伝えた主の掟を思い起こし」、「純真な信仰を思い起こして欲しい」(3:1)と述べます。このために彼は「イエスを知ること」(II 1:2,3,8)を特に強調しています。

この場合の「知る」は、哲学や思弁による「知識・智慧」を指していません。それよりもっと根本的に心中深くに、生けるイエス・キリストを体験することを求めているのです。「わたしたちは、キリストの威光を目撃した」(I 1:16〜18)以下の文は、山上での変貌の主(マタイ17:1〜8)の目撃を物語るところです。それは彼の魂の内に刻みこまれた、信仰の事実に他なりません。それが彼の真の知なのです。それは使徒パウロにとっての、ダマスコ途上に於ける幻のイエスとの出会いと、全く同じ体験知というべきものなのです。ヨハネがペトロの死について予言している所があります(21:18〜19)。この時既に、ローマで逆さ十字架につけられ、殉教の死を遂げていた彼の死の覚悟は、キリストの死が与える贖罪の恵みに溢れていました。過去に失敗多かった彼も、この時は三度復活の主に「我を愛するか」と問われ、三度「我主を愛す」と言い切れたのです。主は「わたしに従って来なさい」と命じられ、ペトロは見事に、主の死に従うことができました。この世の歩みはおぼつかなくても、心に真実の信仰を抱き、主の前に歩み続ける者を、神は見逃すことはあり得ないと信じます。「一日は千年、千年は一日」とは、この世の時間の計算では合点ゆかぬものです。しかし、神の時間は異なります。この世の時の流れは横に流れても、神の時間は縦に天の高きより、人の心の内に深く飛び込んで来るものです。また「主の日は、盗人の如くやって来る」ともあります。我々の考えや意志の堅い壁を破って、神の力は恵みの力として臨みます。神の力・御意志は、信仰に対し救いの道をキリストの愛の力を以て、切り開いて下さるのです。

神の摂理に導かれ、わたしたちも信仰の道を過ごして来たこの一年、今日の主日を以て終わります。次の主日は「主の来臨」を告げる「待降節」を迎えます。この終りと始めを、如何に仕切ることが出来るでしょうかが、今私たちに問われています。そこに危機があります。あらためて千年を一日に凝縮し、一日を千年に遡る思いで、わが身に起こった救いの御手が、如何に偉大であるかを知ることが出来れば幸です。「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さ」(エフェソ3:18)を知り、「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」と知れる人は幸です。

「終りの日」に「現在化された終末」を知り、「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」(コリントII 6:2)と知り得る人に、「神の日」は約束の如く訪れるのです。危機はチャンスと人は言います。終りの日の危機を、救いへの好機と捉え、明日に向かいましょう。

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