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神の言葉を無にするな

神の言葉を無にするな
梅田 憲章

あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている

マルコ 7章1〜13節

イエスに敵対するユダヤ教の総本山エルサレムから律法を厳格に守ろうとするファリサイ派の人々と数人の律法学者たちがガリラヤ湖のほとりベトサイダにやってきた。彼らは古い律法によって守られる時代に生きる人々であった。彼らは弟子たちに近づき、彼らの一挙手一投足を見、イエスの言葉を聞いた。変わるのは自分たちではなく、イエスたちであって、律法に従うべきであるというのであった。

彼らは、イエスの弟子たちの中に汚れた手で食事をする者がいるのを見た。そこでイエスに尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」

彼らは律法の世界に生きていた。ユダヤ教においてはこの律法という言葉は三つの意味に用いられている。第1は十戒を表わしている。第2は旧約聖書39巻の最初の5巻に書かれている内容である。第3が律法学者の、または口伝の律法として知られているものである。これは最後に現われたものであり、彼らの目には、最も大切な、最も拘束力のあるものであった。ユダヤ人にとっては、この世の中に律法より聖なるものはなかった。神が望まれたものであると信じ、これらを守ることが神に仕えることであった。

人は食事をする前に決められた方法で手を洗わなければならなかった。これは衛生上の問題ではなく、儀式上の問題であった。たとえ手が全然汚れていなくてもそうしなければならなく、そうすることが神を喜ばすことであった。手を洗わないことは罪を犯すことであった。 眼に見え、具体的で、誰にでも同じように出来る決まりを行うことは、大切な業であった。

イエスは「あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」と批判したのである。
 彼らは、先祖からの言い伝えを真実で敬虔に振舞っていたが、十戒や5書に書かれた律法に対しては不従順であり、内心では不敬虔なので、偽善的であるという意味であった。

 このように人間の言葉である「言い伝え」を過大評価して、それに固執することはとりもなおさず、神のおきてを破り捨てることになる。キリスト教の伝統が「聖書の戒め」より重要になり、拘束力を持つようになるなら、それは大変な問題である。

 ユダヤ人は十戒の言葉を現実の中で解釈し、現実の中で定着させるために、現実の生活に適応した神の言葉に代わる「言い伝え」が必要であると主張した。

誰だって、目的を達成するために、具体的な手段を考え、それを実行することを考え、行動するであろう。神の言葉があり、「言い伝え」がある。それらは調和しているのだと考えた。

しかしイエスは神の言葉と人間の言葉である「言い伝え」は調和するものではないと主張した。イエスと弟子たちが「昔の言い伝えに従って歩まない」理由はここにあった。

実際に今の私たちには成文化された「先祖からの言い伝え」は存在しない。しかし、ユダヤ人が神の言葉を守るために多くの「言い伝え」を設け、調和したものとして必死に守り通したことと同じことを現代の私たちもやってきているのではないだろうか。キリスト者を見て「良くあれでキリスト教を信じているといえるものだ。」と思ったり、逆に「あなたはそれでよくキリスト者ですね。」といわれたりすることはないだろうか。神の言葉の、いやキリストのずぅっと手前に、人間のほうに向かって立って、人々がキリストの言葉に触れる意欲の邪魔をしていることはないだろうか。

イエスが私たちに期待されておられるのは、「それでよくキリスト者ですね。」と言われているその人に近づいてよく見ると、その人は必死になって神に近づこうとしている、そのようなキリスト者ではないだろうか。
近づけば、近づくほどキリストのかおりが漂いだす。そのようなキリスト者に、神の言葉を生かすキリスト者に、皆様と一緒になって行きたいものです。

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