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下へのぼる梯子

下へのぼる梯子
三枝禮三

ヨハネによる福音書1章49−51節

詐欺犯で逃亡者のヤコブがエサウの殺意を逃れて荒れ野で石を枕に横だわったとき、彼にあったのは孤独と恐怖と不安だけ。前も後ろも闇ばかりでどこにも救いなどありません。夢とはいえそこへ垂直に天の梯子が立ったのです。おまけに天使たちがそれを上ったり下りたりしていた。なぜ?ルターは深い洞察力を以て慎重に読みます。それは既に賤しい人間の姿を取って降り給うたキリストの卑賤の中から託された神の言葉だからだ。 しかも実際にヤコブの枕べに立って神の言葉を告げるためだと。そしてそう読むよりほかない真意を、「私はキリスト以外の如何なる神も知ろうとは思わないし知りたいとも思わない」と言っています。キリストご自身がナタナエルに言っています。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがた、は見ることになる。」まことにパウロが言うとおり「キリストがすべてであります。」(コロサイ3;1 1 )八木重吉も詠っています。○うそのことばだ/キリストを信じたいという/そのほかのことはみんなうそだ/でたらめをいっているのだ/さびしいからな〈13〜15〉

見よ、主が傍らに立って言われた。「わたしは、主である。」これにつづく言葉は何という恵みに溢れた約束でしょう。これ以上何も付け足すことはありません。なぜ逃亡中の詐欺犯にこんな至れり尽くせりめ約束が与えられたのでしょう。ヤコブの側に何か神に喜ばれるところがあったからでしょうか。そんなものはひとかけらもなかった。彼の側には文字通り羊の皮をかぶった狼という嘘偽りの罪以外には何もなかった。それならいったいなぜこんな得も言われぬ恵みの約束が一方的に与えられたのか。その秘密は「わたしは、主である」という一語に尽きます。「わたしはお前の主である。だからである」ということ。その神のことば以外には何の根拠もありません。 これが全聖書を貫く大いなる神の秘密です。私どもの推し量りを超えた神の自由な恵みの秘密です。計らいです。だから、繰り返して新たに、ひたすら聞いて、ひたす、ら信じて、ひたすら感謝するよりほかありません。〈16〜19〉

「まことに主がこのところにおられるのに、わたしは知らなかった。」何よりもこの無知の自覚、この不信仰の自覚こそ、ヤコブに起った覚醒でしょう。悔い改めでしょう。彼の世界に天が開けて垂直軸が突入してきた何よりのしるしです。恐れおののいたヤコブは何をしていいかも分らず枕にしていた石を立てて叫びます。「これはまさしく神の家だ。そうだ、ここは天の門だ。」彼は決して「ああ、あれは夢だったか」などと言ってはいません。 さっそく礼拝すると、聞いたばかりの神の言葉を、自分の言葉で言い直して誓願を立てます。献身の形をとった神の約束の再確認です。〈20〜22〉

註解者たちは、これをヤコブが神まで巻き込もうとしている虫のいい取引として読んではならないと忠告しています。却って神の約束を自分自身への現実の約束として受け取って確認しようとしている献身の表現だというのです。 このヤコブに瓜二つの人物がザアカイです。主イエスに泊まってもらえた嬉しさの余り歓迎の宴席で突然立ち上がると、主イエスに献身を誓います。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」(ルカ9:8)彼は主イエスに一晩泊まってもらえただけで嬉しさの余り、人目も気にせず道化じみた強欲な本性までさらけ出して献身しています。ならば、約束を果たすまでは決してお前を見捨てないと言われたヤコブが強欲な本性丸出しで献身したとしても少しも不思議はないでしょう。翻って私どもは、至れり尽くせりの主の憐れみに感動して人目も気にせず一途に献身したヤコブやザアカイに、果たして恥じないでいられるでしょうか。

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