過去の説教

心をひとつにして

心をひとつにして
梅田憲章

さて、兄弟たち、心を一つにし、思いを一つにして、固く結び合いなさい。

コリントの信徒への手紙一1章10-17節

パウロはエフェソの町にいました。海の向こうコリントからやってきた「クロエの家の者」が「コリントの教会が分派に分れ、競い合っている」と告げました。コリントの教会は民族、経済力、社会的地位などに大きな差を有するきわめて多様な人々の集団でした。しかし、すべての人々がキリストに選ばれ、キリストに救われ、キリストを主と信ずる共通の点を共有するキリストの教会員でありました。

主として異邦人たちからなるパウロ派。キリスト教の知性化路線を進めようとするアポロ派。救われるという恩寵・恵みを軽んずる律法主義者のケファ派。自分たちだけはコリントにおける真のキリスト者であると主張するキリスト派であった。みんなキリストを信ずるキリスト者であり、キリストに属するものであるのにいつしか分派が起こり、それによって仲間割れが始まり、争いが引き起こされていったのです。

1.パウロは、彼らを「兄弟たち」と呼びかけます。
2.そして、「キリストは幾つにも分けられてしまったのですか。」と問いただします。
3.さらに、コリント教会の人々の誤りは洗礼の意味の誤解にあるとパウロは思うのです。
洗礼は誰が洗礼を授けたかによってなにか特別な結束を生み出しはしないということです。パウロは「キリストの名」によって洗礼を授けられたことを思い出すように勧めるのです。

教会は、キリストの名によってすべてが為され、洗礼式も、聖餐式も、説教もそして聖徒の交わりすらも、キリストの名によってなされているのです。為した人の名が神の名より前に出たとき、それはその人にとって神が遠くに離れ、小さな神になり、そのような神より、地上の近くにいて、応答してくれる人間を頼りにしているのです。将にこれこそが偶像礼拝なのです。

パウロはキリストの名によって、兄弟の一人として勧めます。語ることを一つに、悪に対して共同戦線を組みなさいというのです。ルターの訳では「一つの声、一つの思い、一つの考え」になってほしいというのです。

私たちの生きている社会では、このような分派活動で満ちています。目的や主義・主張よりも人気に左右され、正しいか誤っているかよりも、好き嫌い、心地よいか否かなどが自分の意見を決めるのです。近くの応答性の良い人間をリーダーにしてしまうのです。

現代の私たちの教会はコリントの教会に比べるとはるかに均一性に満ちているのですが、この同じ過ちにとらわれます。というのも、コリントほどではなくとも、年齢、性別、職業、経験、学歴などの多様な履歴に基づき考え方、行動の様式、認識の差異も大きくなるからです。

教会は神の思いが満ちたところです。しかしその神の思いと人の思いが戦うところでもあります。なぜ教会で、人の思いが神の思いと戦うのでしょうか。初期のキリスト教の行動原理があります。それは「本質における一致。行動における自由。そしてすべての面での信頼。」という言葉です。

私たちは主に救われた。ここで一致し、一致した仲間が違いを認め合う。洗礼も神の名によって洗礼を受けたというところで一致し、説教も神の言葉の啓示を受けるものというところで一致する。

ワールドサッカーの岡田監督が「人間だから合う、合わないはある。しかしそんな状況の中で、共通の目的に心を一つにして、お互いを認め合うことが出来た。最後はそういうチームになれた。」と語っていた。教会こそ、神の思いに満ちた教会を目的とする救われた者が、心を一つにして、一人ひとりの経験や能力や時間をささげ、それらが余すところなく組み合わされ、ささげられるところなのです。

各々の人々の個性が豊かに花開き、次から次へと実が稔り、一人ひとりが他人の独自性をほめたたえ、違いを認め合い、各人をうらやむことなく、各人の機能を十分に発揮しあう教会。心を一つにした暖かい教会を神にささげて行きたいものです。

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