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梅田憲章

「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」

マタイによる福音書 4章12-17節

ヘロデ・アンティパス王は再婚により兄弟の妻と姦通した罪を、妻のヘロディアは叔父と結婚した罪を犯した。預言者バプテスマのヨハネはこれを律法違反と烈しく非難した。(マルコによる福音書6章17-20節)。非難され、怒ったアンティパスはヨハネを捕らえ、拘束した。

この出来事により、神はヨハネの時が終わりを告げ、イエスの立つべき時が到来したとイエスに示した。それまでヨハネもイエスも、ユダヤの地で活動していた。宗教と学問の中心で、神殿の都エルサレムがあるユダヤ地方こそ、宣教の地としてはもっとも好適な地であった。ところが、ニュースが伝わると、イエスは辺境の地ガリラヤを選び、活動を開始することになった。ガリラヤ地方とベレア地方は、ヘロデ・アンティパス王の領土ですから、アンティパスを恐れるのであれば、ユダヤこそが安全なところだったのです。ガリラヤの民に伝道する特別な意味があったからです。(13-16節)。紀元前732年にガリラヤはアッスリヤに占領され、多くの民が捕え移され、代わってアッスリヤ帝国各地の人々が注ぎこまれました。その後もバビロン、ペルシア、マケドニア、エジプト、シリアと多くの異民族の支配下に置かれたのです。したがってガリラヤ人は、ユダヤの血と外国の血を受けた混血人種であり、文字どおり「異邦人のガリラヤ」でした。しかし、その夜明けのないような絶望の中に、大いなる光が照り始めます。それは「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。」(イザヤ9章5節)のです。このみどり子イエス・キリストによって、死せる人々の上に光は照り輝いたのです。

そして、イエスは「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。「悔い改めよ」とは、反省しなさいという意味ではありません。心を変えよ、生まれ変われ、神を中心に置けという厳しい要求をするのです。彼らが暗くなったのは、神を求めなかったからでした。彼らが死の陰に住んでいるのは、偶像や霊媒や易占いなどに明日を賭けたからでした。イエスが暗黒の民を照らす光であるという場合も、この悔い改めをせず、礼拝も省略して、ただ慈善的に救われるということはないのです。悔い改めなさい。その時、光は暗きを照らすでしょう。

現代は、技術、科学や文化、文明の点では決して暗くない、いや実に明るい時代といえるかもしれません。しかし、わたしたちの周囲、日本の家庭や社会には、神についての暗さ、無知が想像以上にはびこっています。1999年の神の存在についての調査は、神を信じない人が10%、わからない人が20%、信じるときと信じないときがある55%、存在するだろう10%、信じているはわずか5%しかいないのです。また、神の存在に関する調査では1950年代60-70%の人が神の存在を信じていましたが、2005年では22-30%の人しか神が存在するとはいわないのです。約40%の人が55年間に神を見失っているのです。

正しい神知識と神信仰が、心の中心に落ち着かない限り、またどこかから偽りの神々が、苦しいときの神頼みに招かれて忍び込むのです。イエス・キリストが来て、正しい神知識と真の神信仰を与えて下さるときに、はじめてわたしたちの魂は充実した安らぎを得、光を見ることができるのです。真理の光を見るのは、何よりも教会の礼拝、説教によってです。教会の礼拝、説教の大きな特長は、「悔い改めよ」と迫る点です。

今まで真の神を知らず手探りで生きていた暗黒の社会に、光が照りつつあることを宣べ伝えなければなりません。この暗い社会の民のために、ひとりのみどり子は生まれ、イエス・キリストは乗りこんで来て下さったのです。だれもが、教会の説教によって真理を学び、それまでの暗黒を告白し、無知と思い上りを悔い改めなければならないのです。

「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」 (ヨハネによる福音書8章12節)。

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