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祈りの家

祈りの家
梅田憲章

「わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである」ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている。

マタイによる福音書 21章12-16節

エルサレム神殿の門前市は、聖書の許した制度だった。しかし、イエスは、売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。祈りの家として建てられた神殿が人間の規則によりお金が絡みだし、なるはずのない強盗の巣のようになって行く。商売人たちにとっては、神殿は自分の利益を生み出す建物であって、祈りの家ではなかった。エルサレムの神殿を見たイエスはそう思った。

神殿が出来上がるまではイスラエルの歴史だった。モーセの指導の下に出エジプトを果たし、カナンに定着するまで、イスラエルの民は幾多の苦難を乗り越えてきた。彼らは神の救いと導きによってそれらが可能となったと確信していた。感謝の思いから、王国の創始者であるダビデは神のためにと神殿の建設を思い立った。しかしダビデは、思いもしなかった神の禁止命令(?サムエル7:7-13)「わたしがあなたのために家を興す。」を受けた。やがて(列王記上6章)ダビデの子ソロモンが7年の歳月を費やし、壮大な神殿をエルサレムに建設し、これ以降王国統合の中心として、重大な役割を果たすことになった。しかし、それと同時に王国の腐敗が始まることとなった。

預言者エレミヤは、神殿という建て物によって民の無事・安全が保障されるかのように考えるのは根本的に間違っており、偶像崇拝と訣別し、真の神に立ち帰って正義と公道を行うことなくして、イスラエルの民に前途はないと宣言した。エレミヤの目には、神殿は盗賊の巣(7:11)と見えたのであった。預言者エゼキエルは、神ヤハウェがついにエルサレムの聖所を見棄て、その栄光が東に飛び去る幻を見た。(エゼキエル11:23)。こうして神不在のもぬけの殻となったエルサレムの神殿は廃墟、再建という歴史をたどり、紀元前9年に改修工事を終え、一応の完成をみた。エルサレムの神殿が、宗教的・政治的統合の中心として、ユダヤの人々の心を捉えていた。イスラエルの民は自分たちの存立を支える絶対的価値を、神ヤハウェの中に見出していたのだが、いつの間にか、神殿が神にかわる存在へと、絶対化されて行ったのである。それがゆえにエレミヤやエゼキエルが指摘し、心配した腐敗と欺瞞は、押しとどめようもなく進行し、ついに、イエスがこれにメスを入れようとしたのであった。 イエスの思いは、「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」であったに違いない。

宮清めの後に近づいてきたのは目の見えない人や足の不自由な人たちであった。彼らは、規則のため、それまで神殿には入ることもできなかった。イエスは目の見えない人や足の不自由な人たちを癒し、彼らも堂々と内庭に入って行くことができる身となったこと示すのであった。次に近づいてきたのは子供たちだった。子供たちが「ダビデの子にホサナ」と叫んで、イエスの到来を歓呼して迎えたのであった。

この物語は私たちの心に鋭く突き刺さるイエスの目を意識させる。教会に人間関係を持ち込み、神との関係をなおざりにする自分。自分に与えられた時間の用い方について、優先順位を自分のための業を重んじ、神のわざを第2番目とする自分。主イエスがわたしのために十字架に係り、罪を赦し、新たに生きるために命を与えてくださったにもかかわらず、その恵みに生きることを選ばず、自分の世界で生きることを選んでしまっている自分。結局、神を自分の手元に引き寄せ,形骸化した神殿と同じように神を偶像化している自分。  

イエスはこのような私たちに今日も十字架の上から私たちを召して居られる。そして、私たちの中にある形骸化した神殿、偶像を壊して下さっている。そして、イエスの元に近づき、癒しを受け、祈りと賛美をすることを求めている。

私たちは、自分のために刻んだ像を作ってはならない。これらにひれ伏しはならない。イエスは今日も私たちを清めるために、十字架に向かわれている。

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