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漁師を弟子とする

漁師を弟子とする
梅田憲章

イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。

マタイによる福音書 4章18-25節

イエスはペトロ、アンデレに初めて、出会ったのでしょうか。ヨハネによる福音書1章5-42節では、ヨハネはイエスに出会い、イエスを「見よ、神の子羊」というのでした。二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従ったのでした。そのうちの一人がシモンの兄弟アンデレでした。アンデレは兄弟シモンをイエスのところに連れて行き、イエスとの出会いを経験させるのでした。

イエスが目をとめて、見つめるとき、出会いが起こる。この出会いは私たちに変化を引き起こします。今までの歩みをそこで止め、どう生きるかという選択をし、歩み始めるからです。

1.「わたしについてきなさい。」イエスの言葉に、ある者は敵対します。マタイによる福音書12章9節では、安息日にユダヤ教の会堂で、片手の萎えた人を治すイエスに対して、「ファリサイ派の人々はどのようにしてイエスを殺そうかと相談した」のです。イエスは彼らの守り続けてきた律法を冒涜する者であり、その言葉と業に力があり、その力はそれまでの彼らの人生をはっきりと否定するものであるがゆえに、イエスを除去しようとする力も強く、多くの人に働いたのでした。

2.「わたしについてきなさい。」この言葉にある者は従わなかった。マタイによる福音書19章16-22節の金持ちの青年が従わない者の代表にふさわしいでしょう。青年は礼儀正しく、律法をきちんと守り、慈悲深く、そして宗教的な人であった。彼が嫌がったのは、特権や地位や経済力といった富が意味するすべてを放棄しなければならないことであった。安心していられる世界を捨て、イエスの招いている世界へすすむ準備ができていなかった。永遠の命を得ることを彼の目的とするならば、今までの行き方とは決別しなければならないことは当然のことであった。行為の正しさ、多さによって救われるのではなく、神がわたしを選んでくださったという神の恩恵を信ずることによって救われるのです。

3.「わたしについてきなさい。」この言葉に、ある者は従った。彼らはイエスとともに、苦しむ人々に、あなた方が努力して神の国にはいるのではなく、神の国は近づいたと宣べ伝え始めた。彼らは、イエスのまなざしの中を歩み続けた。彼らの歩みは十字架のイエスを見習うものであった。ヤコブもペトロも殉教した。

彼らは死のかなたに復活の命が輝いていることをイエスの死を通して確信していたのである。

イエスに見つめられた変わった人々には、もうひとつのタイプの人々がいる。それは、ユダヤ教の会堂で、安息日の礼拝を守り、旧約聖書の意味を教えられ、その予言の成就として神の国が近づいたとの福音を述べ伝えられていた人々であった。また、それはイエスによって癒された人々であった。それまで誰も癒すことができなかった病気に悩んでいた人々、病弱で体が衰弱しきっていた人々であった。また、癒しを見て感動していた人々であった。彼ら、多くの群集も、彼らの正しさ、行いの清さで選ばれたのではなかった。彼らは努力や働きや節制、そして祈りや願いを重ねても、むなしさと挫折に満ちた日々の歩みを変えることができなかった。彼らは「神の癒し」によって知った神の愛、神の選び、神の慰めを通してイエスを主と認めたのであった。彼らもイエスと出会い、今までの歩みを止め、まったく異なる新しい歩みを始めたのであった。彼らは、12人の弟子のようにはならなかった。熱く燃えた信仰が時間とともに冷えていった人たちもいた。しかし、大多数は、執事として、あるいは、さまざまな役割を担う教会を支える人々となったのである。

私たちもいろいろな時に、イエスに見つめられ、出会いを感じるであろう。それは聖書のみ言葉を通してのことが多く、その時には「わたしについてきなさい。」という言葉を耳にするであろう。そのたびに、自分の周辺にある神の国にふさわしくない、余計なものに気がつく。私たちに近づき、「わたしの恵みを受けよ」と呼びかけてくださる神に応える有意義な年としたい。

 

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