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故郷でのイエス

故郷でのイエス
梅田憲章

イエスは、「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」と言った。

マタイによる福音書 13章53-58節

イエスは「天の国は『隠された宝』であり『高価な真珠』である。持ち物をすべて売り払っても買うべきである。」と語った。つまり、イエスが天の国そのものであり、イエスに従うべきことを教えたのでした。しかし「あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。」(マタイ13:14)という厳しい実感を持って、お育ちになったナザレに戻られたのです。 そして、いつものように、イエスは会堂に入り、「わたしはメシアとしてイザヤが預言したことを奇跡的に巻き起こす力を持った者なのだ」と語るのでした。

これを聞いたナザレの人々は驚いて「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。」と言い合ったのです。イエスの知恵・力・教えが「どこからか」と問う人々の思いは、イエスは超自然的に神から使わされた預言者とは思えないというのです。ナザレの人々はイエスに出会い、イエスの話を聞き、奇跡を見て、この人こそ神の子であるかもしれないと驚くのです。しかし、イエスは人間であるという肉の思いが彼らを信じる世界から引き離し、彼らが見て知っている事実に立ち止まらせるのです。

このことは、イエスは「神の子」であると共に「人の子」として生まれ、「まことの神にしてまことの人」としてこの世に来られたということが、つまずきを生み出す根源的な原因となっていたのです。イエスだけではありません。見るわたしたちにも、この世に生きるわたしたちが神の国を見る、そこに見る箇所が2箇所となる。二つを同時に見ようとするとき、二つとも完全に見ることが出来ず、中途半端となり、つまずきの原因となるのです。このつまずくようなとき、私たちはナザレの人々の姿が自らのすがたになるのです。

信仰とは、イエスが大工の息子で、つい先日まで大工だったのにもかかわらず、イエスの口を通して神が語られたこと、イエスがなさったことの新しさを見ぬいて、それによって自らが変革されることを躊躇しないということでしょう。ナザレの人々は、結局、大工のイエスの言葉も行為に驚きはしたが、信じなかった。神の言葉ではなく、従来からある、もっと信頼に値するようにみえる経験を信頼した。自分のことは自分が一番よく分かっている、自分のことについての専門家は自分自身である、その自分に教えるのは、大工のイエスなどでは絶対にないというのが彼らの立場だった。

しかし、人はしばしば自分が変えられることを拒絶する。変わりたくないのです。それがまさにナザレの人々の姿であり、私たちにとっても他人事ではないのです。

私たちはイエスに出会った瞬間から、イエスがわたしたちに向かって語りかける言葉とその行為に応答することが求められている。その答えは、イエスを信じるか、イエスを信じないかのどちらかである。この応答を通して、私たちは神との人格的な交わりへと踏み込むことがゆるされるのである。わたしたちはイエスを目の前にしても、これまでに育まれてきた動かしがたい枠組み・過去の経験の中を生きようとする。自分が変えられることに恐怖を覚え、ひたすらこれまでの自分の「常識」に立ち続けようとする。このナザレの人々と同じように、私たちは、神の言葉を聞こうとせずに、人間しか見ようとしていないのです。そこにナザレ人の、そしてわたしたちの限界があったのです。

イエスに出会い、イエスがわたしたちに向かって語りかける言葉を聞き、私たちを見つめる目を見てみようではありませんか。慣れ親しんでいる自己をはなれ、神の言葉に自らの存在をかけて、信頼を置いてみようではありませんか。

イエスはヨハネによる福音書20章27節で「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」そして、トマスに対して、最後に「見ないのに信じる人は、幸いである。」と語るのです。

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