過去の説教

来るべき方

来るべき方
梅田憲章

ヨハネは牢の中から尋ねた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」

マタイによる福音書 11章2-19節

洗礼者ヨハネは、ユダヤの荒れ野で「悔い改めよ。天の国は近づいた。」と語り続けた。ユダヤの多くの人はこの言葉を聞いた。そして「神のもとに帰って、今一度自分の人生を見直しなさい。悔い改めなさい」という、ヨハネの言葉に人々は心を揺さぶられた。

しかし、ヨハネは領主ヘロデに捕えられ、1年近く、死海の東側マケラスにあるヘロデの居城の牢獄につながれていた。投獄されていてもヨハネは自分が紹介したイエスの挙動が気になっていた。イエスはガリラヤ地方を巡回して悠悠と宣教と病を癒す働きをなさっているようだ。(マタイによる福音書9章3節) わたしが神の御心に従い、行っていたような神の怒りを宣告し、いつ裁きを実行してくれるのであろうか。果たして彼の方法で神の国は来るのだろうか段々頼りなくなってきたように思うのだった。ヨハネは死に直面していた。彼は自分の残された命を恐怖に費やすのではなく、死を越えて永遠にいましたもう神への確信に捧げたいと願っていた。そこで、彼は、尋ねてきた弟子たちに、「わたしはあなたこそ、わたしの後を継ぐべき人だと信じております。しかし弟子の話を聞いていると、だんだん分からなくなってきました。本当にあなたがわたしの期待しているお方なのでしょうか。あなたはわたしと同じように、神の怒りを宣告し、麦とからを吹き分けるように裁きを実行される方なのですか」と尋ねさせた。

イエスはこのヨハネの疑問に対して、弁解や説明で答えるのはなく、なさっている事実を持って、お答えになった。それは、目が見えない人、足が不自由な人、重い皮膚病を患う人、耳の聞こえない人などの病いを癒したのです。それらの病がその人又は両親の罪に対する神の罰として起こるということを打ち消すためであり、イザヤ書35章4-6節に書かれた「神は来て、あなたたちを救われる。そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。」を実践して見せているのです。さらに、イエスは「神は来て、あなたたちを救われる。」と宣言するのです。さらにイザヤ書61章1節の「主はわたしを遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせる。」と福音をのべ伝えたのです。イエスはヨハネに、「わたしは確かにあなたを引き継いだ。」と事実を持って語った。それによって、ヨハネに、満足をもって、死と直面したでしょう。ヨハネは生きている今も、死が迫る時にも同じように「主の御心の中を生きている」と確信したのでした。

このように洗礼者ヨハネとイエスは異なっている。しかし、その両者を通して、神の知恵が語られているのです。

神から離れている自分。:人との関係に生き、人々との比較に生きてきた。神よりも自分を主役に考え、自分を大切に、自分の安全を、自分の都合を、自分の願いを、自分の希望に優先順位を高くしてきた。罪を認めず、罪を悲しまず、悔い改めずにいる自分。その自分が、ヨハネの言葉に触れ、神のさばきの言葉に触れ、自分を見つめ直す。自分のこわばった気持ち、ゆがんだ感情、傷ついた自尊心などに、自分の罪の大きさを自覚する。また、律法を守れないがために阻害されている人々、「罪人」と社会から蔑視されている人々は、胸をたたいて自分の弱さを悔い、神から離れて日々を過ごしてきたことを悔いる。目が見えず、耳が聞こえず、口が聞けず、病気の人々が来る。これらの人々が、イエスの言葉により、こんな自分をも赦してくださることを知り、そこに働く神の愛を知る。そして、そこではじめて、神に立ち返ることが出来るようになる。すなわち悔い改めることが出来る。

クリスマスは、自らが生きている時にも死が迫る時にも、同じように「主の御心の中を生きている」という確信がすべての人々に与えられるという、神からのプレゼントなのです。

 

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