過去の説教

用意して待つ

用意して待つ
梅田憲章

あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。

マタイによる福音書 24章36-44節

ユダヤの民は終末において、救世主メシアにより民族共同体全体が救われることを望んでいた。それに対し、キリストが再びやってこられる来臨の時、終末の時は、一人一人の選びが考えられていた。キリスト来臨の時は選びと同時に裁きをも意味していた。

旧約聖書ノアの物語で、ノア以外の人々が、神から示された「時」の到来に意識を払わなかったように、あなた方も、終末の時に不意を突かれて滅びにいたることがないようにというのです。

今日の聖書でも、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。とあります。二人一組で力をあわせ、畑を耕し、しっかりと絆で結ばれていても、それだけではともに天に行くことは出来ないというのです。救いは純然たる基準に基づき、「個々人の選び」によってなされるというのです。

それでは、選びが純然たる神の業である時、私たちはいったい何をすべきでしょうか。マタイは目を覚ましていることを勧めています。目を覚ますということは、単に起きているということではありません。これから起ころうとすることに備えて、待っていることです。自分の主が帰ってくるまでの時を、主が自分に望んでいることを精一杯やるために用いることです。

終末までの時を生かすと言うことを、もう少し考えてみましょう。優れた農夫は時の変化を見逃すことはありません。冬の間に、春に育てる種を集め、苗を育て、雪が解けると、畑を耕し、収穫の時期を想定しつつ、種を蒔き、苗を植えつけ始めます。時の変化を豊かな収穫のために見逃すことはありません。その時に最もふさわしい作業をし、生活全体の中に変化する時を取り込んで生きています。このようなことは、季節や自然の変化をどう取り入れるかの違いはありますが、学生であっても、主婦であっても、サラリーマンであっても、経営者であっても、同じであります。時をどのように使っていくかが、その人の人生を決めていくのです。その時を知り、その時までを「目を覚まして」、「用意する」生き方、その様な終末的生き方をしようではないかといっているのです。

ルカによる福音書17章20-21節に「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」とイエスは語ります。終末はいつ来るか分からない将来的なことです。未来の審判の時を迎えるときに、私たちが選ばれるか、選ばれないか、その根拠は、今の私たちの生活の中にある、今の私たちの間にあるというのです。

隣人と私たちの関係を、一日の終わりの時や一年の終わりの時などの区切りの時に、キリストの基準に照らして考えるのです。同じ畑で働いている二人の男のうちで、二人とも迎えられるのか、どちらか一人が迎えられるのか、二人とも取り残されるのかを考えるのです。終末は一人一人に個別的に訪れます。世の終わりという意味もありますが、大切なのは「神と私の決定的な時なのです」。自分の人生を形作る時なのです。

このような生き方は、「毎日を終末と思う」考えを引き起こします。緊張感を持ち、この世を責任的に生きることを促します。このことはパウロがテサロニケの信徒への手紙4章11節で「そして、わたしたちが命じておいたように、落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くように努めなさい。」、と語っていたことです。

日々に感ずる終末的な出来事、もう二度と自分の人生に現れることのない出来事、それら一つ一つにどう対応するか、まさに小終末の選びの基準ともいえるこれらの出来事が、自分たちの終末を指し示しているのではないでしょうか。

そういう意味で私たちは日々を「神との決定的なとき」として、生き抜いていかなければならないのではないでしょうか。

 

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