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人間を真直に造られた

人間を真直に造られた
大坪章美

ヨハネによる福音書 8章31-38節

“コヘレトの言葉”で、重要なのは、29節で、コヘレトが語っている言葉です。ここでは、人間の根元的な問題が、新しい観点から確認されているのです。コヘレトは、「神は、人間をまっすぐに造られたが、人間は複雑な考え方をしたがる」と言っています。「人間を、まっすぐに造られた」という言葉の、「まっすぐ」の元の言葉の意味は、「単純、素朴、素直」を意味します。単純で素朴であることは、実は知恵の究極の姿でもあるのです。それにも係わらず、コヘレトは、「人は、複雑な考え方をしたがる」と主張するのです。どこで人間の性質が変わってしまったのでしょうか。創世記3:6節に記されていますように、最初の人間アダムとエバが神様の命令に違反して、善悪の知識の木の実を食べてから、「複雑な考え方をしたがる」ようになったということは、十分考えられることです。

場面は一転して、イエス様の時代に変わります。イエス様が、エルサレムの神殿で、多くのユダヤ人たちを前にして話されていたときのことです。イエス様は、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われました、「わたしの言葉に留まるならば、あなたたちは、本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」と教えられたのです。このイエス様のお言葉を聞いたユダヤ人たちが、早速質問をいたします、「わたしたちは、アブラハムの子孫です。今まで、誰かの奴隷になったことはありません」と反論をしたのです。しかし、実際のところ、彼らは、イエス様が仰った、“自由”の意味を取り違えていました。彼らが考えていた“自由”とは、誰にも束縛されることなく、“自分の心の赴くままに、行動することができる”ということでした。彼らが言う“自由”は、良心の呵責なしに、罪を犯すことに繋がります。そして罪を犯すことは、人間から自由を奪い、罪の奴隷としてしまいます。イエス様は、このことを良くご存知でした。イエス様が仰った“自由”とは、罪からの自由であったのです。イエス様は、彼らの反論に対して、「罪を犯す者は、誰でも罪の奴隷である」とお答えになりました。イエス様がお答えになったのは、「人は皆、罪を犯す奴隷であって、アブラハムの子孫たちは、特に罪びとである」ということでした。イエス様は、ユダヤ人たちが、「わたしたちは、アブラハムの子孫です」と主張することについて、「あなたたちがアブラハムの子孫であることは分かっている」と答えられました。しかし、イエス様が仰ったのは、「確かに、肉体のうえでは、アブラハムの子孫であることは間違いないが、本当は、そうではない」と非難されたのです。イエス様が、「本当は、そうではない」と仰ったのは、明らかな証拠に基づくものでした。その証拠とは、37節の後半で、イエス様が指摘しておられることなのです。イエス様は、「だが、あなたたちは、わたしを殺そうとしている。わたしの言葉を受け入れないからである」と、激しく非難されました。然し、イエス様がこのように厳しい言葉で非難されたユダヤ人たちは、思い起こしますと、「イエス様を信じたユダヤ人たち」でありました。ここまで来て、初めて分ることは、イエス様が31節で言われた、「わたしの言葉に留まるならば、あなたたちは、本当にわたしの弟子である」というお言葉の中の、「イエス様の言葉に留まること」が、いかに難しいことであるか、ということです。イエス様を信じた多くのユダヤ人たちは、結局、「自分たちはアブラハムの子孫だから、誰の奴隷にもなったことが無い」という、頑なな考えに捉われて、イエス様のお言葉に留まることができず、本当の弟子にはなれませんでした。何故、彼らは、頑なな考えに捉われたのでしょうか。ここで、また、あのコヘレトの言葉が思い返されます。「神様は、人間をまっすぐに造られたのに、人間は複雑に考えたがる」という言葉です。悲しいことに、彼らユダヤ人たちは、複雑に考えすぎたのです。自分たちがアブラハムの子孫であるという頑なな考えにこだわって、イエス様のお言葉を受け入れなかったのです。私たちは、幼子のような心をもって、御言葉を受け入れる者になりたいと願うものであります。

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