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罪からの解放

罪からの解放
大坪章美

ローマの信徒への手紙 8章1-11節

パウロは、7章22節で、「『内なる人』としては、神の律法を喜んでいますが、わたしの五体には、もうひとつの法則があって、心の法則と戦い、わたしを五体の内にある罪の法則の虜にしているのが分かります」と言って、だから、「わたしは何と惨めな人間でしょう」と嘆いています。パウロは、この2つの法則が自分の中でせめぎ合い、いつも、望んでいないのに、罪の法則が勝利してしまうのだ、と嘆いているのです。何故、パウロともあろう人が、このようなことになるのか。・・・・それは、パウロが、自分の姿を、“未だ、キリストを知らない人間、イエス・キリストを知らず、洗礼も受けず、神の聖霊を未だ与えられていない人間”として描いているから、なのであります。そして、この悲痛な叫びの直後に、劇的な言葉が記されています、7章25節です、「わたしたちの主、イエス・キリストを通して、神に感謝いたします」、と。一転して、感謝の言葉が述べられているのです。直前の悲痛な叫びと、この唐突とも言える感謝の言葉、その両者の落差は、例えようもなく大きいのです。一体、パウロの思考、考えの中で、何が起きたというのでしょうか。

あの、パウロのダマスコへの旅の途中での、天から聞こえてきたイエスさまの御声がきっかけでした。一瞬にして、回心のバプテスマが起こり、罪人の立場から、キリスト者の立場に移行したのであります。8章1節で、パウロが述べていました、「従って、つまり、それ故に、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません」という言葉の“それ故に”の答えがここにあるのです。何故なら、キリスト・イエスを知る前は、罪に支配されていた者が、イエスさまを知り、イエスさまに結ばれることによって、罪から解放されたからなのです。まさに、決定的な転換が、その人の運命に訪れたのです。

では、どのようにして、イエスさまを信じるようになると、罪に定められることが無い、と言えるのでしょうか。パウロは、この2節において、「キリスト・イエスによって命をもたらす“霊の法則”が、“罪と死の法則”から、あなたを解放したからです」、と述べています。イエスさまを知る以前の人間の内部では、理性と肉とが対立し、せめぎ合っていました。しかし、悲しいかな、アダムの罪以来、人間には、理性よりも、肉の誘惑の方が強いのであります。

ところが、イエスさまが地上に遣わされてからは、それに終止符が打たれたのです。どうしてか、と言いますと、イエスさまを信じる人間は、理性と肉との戦いをする必要が無くなったからなのです。わたし達、イエスさまを信じる人間には、理性よりもはるかに尊い、“霊”が与えられています。私たちの中では、理性に代わって、“霊”が、肉と争い、戦ってくださるのです。肉の誘惑が、どんなにあがき、抵抗しても、霊に勝つ事は、金輪際、無いのです。何故ならば、わたし達に与えられている“霊”は、イエスさまを、死人の中から甦らせられた方の霊、つまり、神さまの霊であるからです。「今や、キリストに結ばれている者は、罪に定められることはありません」という言葉は、当然のことなのです。パウロは、わたし達、イエスさまを信じる人間について、「キリストがあなた方の内におられるならば、“体”は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています」、と述べています。パウロは、この手紙の宛先、ローマの信徒たちに対して、「あなた達は、既に、霊の人になっている」と宣言しているのです。私達の体に、“神の霊”が住んで下さっているということは、私達は、肉の体としては死を迎えることにはなりますが、内に住んでくださっている神の霊が、圧倒的な生命の威力をもって、働くのだ、と言っています。神さまは、御霊によって、イエスさまを死人の中から甦らせられました。この、圧倒的な力を持っておられる創造主の御霊が、キリストを信じる者たちの体をも、死から生命に引き出されることに、何の不思議も無いのです。そして、このことは、既に保証されている神さまの約束なのであります。主イエスの甦りこそ、これを保証する事実そのものなのです。

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