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神の国で食事をする人

神の国で食事をする人
大坪章美

ルカによる福音書 14章15-24節

イエスさまは、ある安息日に、食事のために、ファリサイ派のある議員の家にお入りになりました。そして、食事の席に着いて、他の招待客が、次々に、自分の席に座っていく光景を眺めては、さまざまな教訓を語っておられました。12節以下で、イエスさまは、この食事に招いてくれたファリサイ派の議員に対し、命令されるのです。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも、呼んではならない。その人たちも、あなたを招いて、お返しをするかも知れないからである」。イエスさまは、お返しを期待しないで、愛の業に励むように言われているのです。13節では、「宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちは、お返しができないから、あなたは幸いだ」と。これらの人たちは、招待してくれた人に、お返しの招待をすることができません。人間からの報いは、期待できないのです。しかし、それでこそ、招待する者、ファリサイ派の議員は、神様からの報いを受けることができるようになるのです。このような人々を、神さまが、終末の、神の国の祝宴に、招いて、報いて下さるのです。

このお話しを聞いていた、食卓を共にしていた客のひとりが、イエスさまに、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と語りかけた、と言うのです。語りかけられたイエスさまは、徐に、「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、宴会の時刻になったので、僕を送り、招待していた人々に、出席の案内をさせた」というお話を始められました。しかし、イエスさまが次に仰ったお言葉は、普通ではありませんでした。18節です、「すると、皆、次々に断った」と言うのです。なんと、初めに招待した客の皆が、一人残らず断ったというのです。この、イエスさまのお話は、神さまが、私たち人間を、御国に招いてくださっていることを表しております。この、盛大な宴会の主催者で、私たちを招いて下さっているのは、神さまです。そして、宴会とは、神の国のことなのです。そして、最初の招待状を承認しておりながら、時が来て、使いの僕に出席を促されると、次々に理屈をつけて断った人たちは、ユダヤ人のエリートたちのことでした。報告を僕から聞いた家の主人は、僕に言いました、「急いで、町の広場や、路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人、をここに連れて来なさい」。しかし、主人のもとに帰ってきた僕が言いますには、「ご主人さま、仰せのとおりにいたしましたが、未だ、席があります」と、報告したのです。これに対して、主人が答えます、「通りや、小道に出て行き、無理にでも、人々を連れてきて、この家をいっぱいにしてくれ」。この主人、つまり、神さまが目的とされる神の国の完成、という御業は、たとえ、ご自身の民、つまりユダヤ人が神の国に入らないことになっても、その目的の達成が留まることは決してありません。「通りや、小道に出て行って」という言葉の意味は、“ユダヤ人と異邦人の区別を無くし、異邦人の人々で、宴会の席をいっぱいにしてくれ”と仰ったのです。そして、最後に、主人が口にした言葉が、すべてを物語ります、24節です、「言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない」。これは、最初に招待状を受け取った人たち、つまり、ユダヤ人のエリートたちは、終末の神の国の食卓に着くことは無い、と言われているお言葉です。イエスさまは、これらユダヤ人のエリートに代わって、本来招かれていなかった、社会的に弱い立場の人々や、ギリシャ人、ローマ人、東洋人など、異邦人に、神の国の食卓が開かれたことを、預言されたのでした。それと同時に、真っ先に招待されていたのに、出席を断ったユダヤ人たちのように、今日、今、を大切にしない人が、問題とされています。“今日”、“今”を、真剣に考えようとしない人々は、招かれた、宴会の席を永遠に失ってしまいかねません。神さまの招きの御声にお応えして、神の国の食卓に着く喜びを、共に味わいたいと願うものであります。

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