過去の説教

御言葉を聞いて行う者

御言葉を聞いて行う者
大坪章美

マタイによる福音書 7 章 21-27 節

預言者マラキがこの託宣を語った時期は、紀元前460年頃であったと考えられます。それは、南王国ユダの主だった人々がバビロン捕囚から解放されて、ユダの故郷へと帰還した紀元前538年から、はや80年近くも経った時でした。そして、ペルシャの属州となったパレスティナはサマリア州に組み入れられて、その土地に住む上層階級の人々は、ユダヤ人が捕虜として連行された後の土地に入り込んだ異教の人々でありました。バビロン捕囚から戻って来たユダヤ人たちが生きていく上で取るべき道は、これらの異教の民との婚姻関係を持つことによって、自分の地位を向上させるしか無い状態でした。マラキは、このような風潮の中で、「神のメシアが必ず来る」ということをユダヤの民に告げて、悔い改めを迫ろうとするのです。

マラキは、神の言葉を語ります、3:13節です、「あなた達はわたしに、ひどい言葉を語っていると、主は言われる。ところがあなた達は言う、どんな事をあなたに言いましたか、と」と言っています。「ひどい」と訳された言葉は、「かたくなな」という意味がありまして、主に逆らっていることが分かります。16節には、「その時、主を畏れ敬う者達が互いに語り合った。主は耳を傾けて聞かれた。」と記されています。そして、神は、彼らの悲しみを、記憶の書に、書き記されました。そして、書き記された「残りの者」たちに対して、主なる神様は、三つの約束を結んで下さいました。

一つ目が、17節にあります。「あなた達はわたしにとって宝となる」と言われました。二つ目に、「人が、自分に仕える子を憐れむように、わたしはあなた達を憐れむ」と言われました。そして、三つ目に、「その時、あなたたちは、正しい人と、神に逆らう人、神に仕える者と、仕えない者との区別を見る」と仰いました。

この預言者マラキによって語られた言葉、「神に仕える事は、むなしい」という言葉を思い起こさせるような、イエス様のお言葉を、使徒マタイが記しています。5:1から始まる、「山上の説教」として、世に知られている箇所です。イエス様は、7:21で語っておられます。「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。私の、天の父の御心を行う者だけが入るのである」と、話されました。
「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者」とは、22節で話された、「かの日に、『主よ、主よ、わたしは御名によって悪霊を追い出したではありませんか』と言うであろう」と、予告された人のことです。

イエス様は、茲で、「主よ、主よ」と呼びかける者達の中に、“偽りの心”でイエス様のお名前を利用する人達を見て、そのような者は、必ず裁かれる、と仰ったのでした。彼らは、偽預言者に外ならなかったのです。

それでは、イエス様が仰った、「わたしの“天の父の御心を行う者”だけが、天の国に入るのである」と仰った、“天の父の御心を行う者”とは、どんな人のことでしょう。イエス様は仰いました、「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた、賢い人に似ている」と記されています。
では、「岩を土台とした家を建てる人」とは、どのような人を言うのでしょうか。「私のこれらの言葉を、聞いて行う者」がその人達です。それは二つの事を守るように言われています。一つは、「御言葉を聞く事」です。イエス様の「山上の説教」の教えを聞く事、です。

然し、聞いただけでは十分ではありません。それだけでは未だ、家を建てた事にはなりません。もう一つ、大切な事は「聞いた事を、行う事」です。知識は、行って初めて意義をもちます。然し、イエス様の山上の説教を聞いて、全て行えるか、と申しますと、私達人間には困難な事も含まれています。けれどそれは、問題ではありません。問題は、「従う事」が大切です。「御言葉を聞いて行う」という事を一言で申し上げれば、「御言葉に服従する」という事です。「御言葉に服従する」と言う事が、人生の唯一つの確固たる基盤です。 “イエス様の御言葉への服従”を基盤とする生活の上には、どのような嵐が吹き荒れようとも不安はありません。イエス様が約束しておられるからです。

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