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「天国は」

説 教 「天国は」

岸 敬雄伝道師

聖 書 イザヤ書26章7~19節 マタイによる福音書25章1~13節

 

 今日は収穫感謝祭礼拝としても礼拝を捧げています。北海道は季節が少し早く過ぎ去って収穫の秋と言うよりは、初冬と言う雰囲気に成りつつありますが、それでも、私は町に出て、先日久しぶりに外食をし、新そばを食べてきました。

 店先には、北海道産の新米をはじめ新物のジャガイモや北海道産のリンゴやブドウなど多くの神様から新たに与えられた恵みを眼にすることが出来ます。

 以前の教会ですと、神様から与えられた恵みの果物を愛餐の時間に分け合って食べるのが、収穫祭の楽しみの一つだったのですが、残念ながら今年はそのような事も出来ません。

 しかし、どの様な時であろうとも神様は私たちに恵みを与えて下さっていることは確かであり、神様が与えて下さっている恵みを改めて思い返して、秋の味覚を味わってみることも良い事なのではないでしょうか。

 本日のイザヤ書は、復活を求める祈りとなります。もちろんイザヤはイエス様が地上においでになったクリスマス以前に地上で生活していた人ですが、主の日、裁きの時を思って祈りを捧げているものです。

 裁きの時には、正しさを学ぶものと憐みを受けても正しさを学ぶことのないものがいるといって、二種類の人について語っています。本日の十人の乙女のたとえ話も、それと同じく、天の国に入れる者と、入れない者がいることを表しています。

 実は、本日の説教題としている「天国は」一般によく知られた言葉ですが、新共同訳聖書には出てきません。それ以前の口語訳聖書では使われていましたが、天国の代わりに新共同訳聖書では天の国と言う言い方が使われています。新しい翻訳では、新改訳聖書と同様に天の御国となっていて、それも、マタイによる福音書に32ヵ所出て来るだけで、ほかの福音書や手紙には出てきません。実はマタイによる福音書独特の言い方だともいえます。

  その様な神の国ですが、この神の国に入ることを待ちわびている私たちは、十人のおとめの譬えのおとめたちが花婿を待ちわびている様子に表しているものと考えられます。十人のおとめとは私たち自身に置き換えてみても良いかもしれません。

 十人のおとめは、ともし火を整えて花婿を待ちわびていたのでした。当時の結婚式は、花婿が花嫁の家へと訪れる形だったのです。そして婚礼の祝宴は、忙しい昼間に行うのではなく、夜に行われることもよくあったようです。ですから、夜に花嫁が花婿を持ちわびているこの情景は、この話を聞いている人たちにとっては良く理解できる出来事だったのでしょう。

 この寓話の中で、花婿と待ちわびているおとめたち十人の中に5人が賢く、5人が愚かな者だった言うのです。賢いか愚かかの違いは、ともし火を整える為の油を持っていたか、いなかったかの違いだと言うのです。

 ともし火とは、この時代、家の中の明かりは囲炉裏の炎であったり、ロウソクなどの灯りではなく、たいまつに布を巻いて油を湿らせて火をつけていたようなものだったのではないか、とも言われています。炎は15分ほどしか持たなかったと言われていました。 花婿の到着が遅れたので、おとめたちは皆寝込んでしまったと言うのです。寝込んでしまったことは皆ともに一緒だったのです。

 私たちも自分たちの身体の弱さによって眠り込んでしまうことは同じく起きてしまっているのでありましょう。

 花婿が遅れて到着した時に、賢いおとめたちはあらかじめ用意しておいた油を使ってともし火を整えたのでした。しかし、愚かな乙女たちは油の予備が無かったために、ともし火を整えることが出来なかったのです。そして、賢いおとめたちに油を分けてほしいと頼んでも断られてしまい店に買いに行きます。

 店に油を買いに行っている間に花婿が到着して戸を閉められてれてしまったのです。そして愚かなおとめたちが「ご主人さま開けて下さい」と呼びかけても、主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』とはっきりと答えたのです。

 この話の中で賢いおとめが、自分たちが持っていた油を分けてあげなかったことは不親切なような気もします。

しかし、ここで言われている油とは他人へと分け与えることが出来ないものだったのではないか。この油とは、神様に対する信仰や証しなど個人が特別に蓄えているものではないかと言うのです。

「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」と言われるのです。備えをしているおとめたちはその日のための整えが出来ているのです。

 天の国とは、その様なものだと言うのです。私たちも天の国、神様のご支配が訪れる時に備えて準備していなければ成らないのです。日々目を覚ましつつ、各々が油を蓄えて。

 

 

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