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エルサレム入城

説教「エルサレム入城」

 岸 敬雄伝道師

聖 書 詩編24編7~8節 マタイによる福音書21章1~11節

 

 本日は待降節(アドベント)第1主日になります。待降節(アドベント)はイエス様がこの地上にお生まれ下さった事をお祝いするクリスマスに向けての準備の期間となります。

 前にある4本ロウソクの1本にも火がつけられました。ロウソクに対しては、色々な意味が込められていると言われますが、一例としては、1本目第1週は「希望」、2週目「平和」、 3週目「喜び」、4週目「愛」を表すと言われ、色々な色のロウソクを用いる教会では、第1週目、 濃紫『悔い改め」。2週目、薄紫『希望』。3週目、『喜び』。4週目、『イエス・キリスト』、を象徴していると言われているところもあります。

 

 イエス様が地上においで下さったのは私たちの罪の贖いのためであり、私たちの救い主としてこの地上においでくださいました。それと共に、イエス様は私たちを統治される真の王としての姿も持っておられます。この世の統治者はしばしば人間としての過ちを犯しますが、イエス様はそのような過ちを犯すことの無い統治者として私たちの王としてのお姿をお持ちなのです。

 本日の詩編の箇所では、王が凱旋してくる、それを迎え入れる城門に対してまで頭を上げよと言うのです。勿論建物ですから頭を上げることなどできませんが、城門まで喜びを表して頭を上げよと言うのです。同じくとこしえの門よ、身を起こせ、と言うのです。なぜならば、栄光に輝く王が来られるからだと言うのです。栄光の王とはどのようなお方であるか、それは 栄光に輝く方であり、強く雄々しい、そして雄々しく戦われる主であると言うのです。その様な栄光に輝いて雄々しく戦われる方が我らの主であり王であると詩編の作者は言うのです。

 確かに、イエス様は雄々しく戦われた勝利者であられます。すべての罪と戦われ、勝ちぬかれた御方です。そして私たちまでも罪の縄目から解放してくださいました。

 しかし、本日の新約聖書の箇所であるイエス様のエルサレム入城の場面は、待降節(アドベント)の時期によく読まれますが、イエス様がエルサレルムに入城される時の様子は、旧約聖書で描かれている姿、詩編で歌われている雄々しく戦われる力強い王の姿とは幾分違った印象を与えます。

 イエス様一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来た時に、イエス様は二人の弟子を使いに出して、子ロバを連れてくるようにと言われるのです。

 いよいよ、エルサレムへとお入りに成ります。エルサレム入城と言われるように、エルサレム自身が神殿を中心として壁に守られた城の様な存在でした。

 イエス様はガリラヤからエルサレムに至るまでにご自分の苦難の預言を3度も行っていらっしゃいます。そしていよいよ舞台をエルサレムへと移して、ユダヤ人の指導者たちとの対立が激化して行こうとしていたのです。

 マタイによる福音書では、弟子たちはイエス様が言われた通りにして子ロバを連れてきたと言われているだけでした。ここではろばの所有者とのやり取りが実際にどうであったかなどは書かれていません。「主がお入り用なのです。」その様に言えば渡してくれると言うのは、もしかしたら、イエス様の支持者がエルサレムの周辺にいたことを暗に表そうとしているのかもしれません。

 むしろ、マタイによる福音書の作者の関心は、その後の預言者を通して言われていた預言が実現したと言うこと、すなわち、旧約聖書の予言が成就したことに重きを置いているように思われます。その旧約聖書において予言されていた箇所とは、イザヤ書62章11節とゼカリヤ書9章9節が念頭に置かれていたようです。そして、「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』と言うのであり、イエス様がまさに旧約の頃から預言され、待ちわびていた救い主であることを示そうとしているのです。

 そして、実際にイエス様は目の前で子ロバに乗って進まれて行くのです。イエス様が子ろばに乗られるのにさいし、弟子たちは自分の上着を子ロバの上に引いてイエス様をお乗せしたのでした。イエス様のエルサレム入城に際しての群衆は大騒ぎしています。群衆が行ったのは、自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いて、イエスの前を行く者も後に従う者も「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」と叫んだのでした。都中は騒然となり、「いったい、これはどういう人だ」と言い、群衆は、そんな疑問に答えて、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言ったのでした。

 イエス様は神の預言者として群衆に喝采をもって迎え入れられたのでした。しかし私たちは、イエス様を、御子として、そして私たちの唯一の救い主として、さらに私たちの真の王としてお迎えするのです。その様な王が私たちと同じ人の体を取って、この地上においで下さったことが、どれほどの恵みであるかをかみしめつつ今週一週間の過ごして行きたいと願うのです。

 

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