説教「民の裁き」
岸敬雄伝道師
聖書 詩編11篇4~7節 マタイ25章31~46節
本日の聖書箇所はイエス様が、24章1節からの終末について述べられている箇所の最後の部分となります。
イエス様は、初めに終末のしるしについて話された後に大きな苦難の予告について話され、そして、人の子が来る時の状況を示されたのでした。
その後、終末が来る時、すなわち、人の子が栄光をお受けに成って再び地上を訪れられる時に、目を覚ましているようにと勧告されたのです。
しかし、本当に眠るなと言っているのではなく、人の子が来る時は誰にもわからないのだから、その時を逃さないように目を覚ましているように注意深く備えているようにと言われるのです。
その後、イチジクの木の譬えや忠実な僕と悪い僕の譬え、十人の乙女の譬え、タラントの教えなど多くの譬えをもって教えられました。
そして、最後の締めくくりとして、本日の聖書箇所において、人の子が栄光に輝いて天使たちをみな従えて来られ、栄光の座につかれる時のことを話されているのです。
人の子、すなわちイエス様が栄光に輝いて天使たちを従えて再びこの地上へおいでになる時、すなわち再臨の時には、私たちの羊飼いであるイエス様は、私たち全ての王として、栄光の座にお着きになると言われるのです。イエス様は色々なたとえ方をされますが、私たちの飼い主として良き羊飼いと言われたり、私たちの支配者、王と言われたりするのです。
イエス様が栄光の座にお着きになった時に、すべての国民はその前に集められて、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らを右と左に分けられると言うのです。イエス様が再臨され、栄光の座にお着きになった時、王として、その民をお裁きになられるのです。
本来、牧畜の民であったユダヤの民にとって、羊や山羊は現在の私たちよりもなじみ深い家畜であり、性格や飼い方も良く分かっていたはずです。
羊は臆病で、時々小さな音などでも、それがきっかけで大騒ぎを起こしてしまうことがあります。それを防ぐために気の強い山羊を混ぜて飼育していたのです。しかし、羊と山羊は似ていても異なるものであり、羊飼いたちは羊と山羊は分けて取り扱います。
イエス様は、羊や山羊と同様に人々を分けて扱うと言われるのです。
人は、外見的には羊と山羊のようにあまり違いが無いように見えても神様の眼から見て正しいか誤っているかで左側と右側に分けられるのです。
この場面においても、救われる人と救われない人が居ることをはっきりと示されているのです。それは裁き主であるイエス様によって分けられると言われているのです。そして、どの様な人たちが救われるかについて語っているのです。
救われる人については、父に祝福された人と言われ、救いに入れない人たちのことは呪われた者どもと言われていますが、その様な違いが何処で起こるのかと言えば日ごろの行動において差が出ると言うのです。
そして、日ごろの行動の結果として、右側にいる人たちに「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。」と言われるのです。そして、左側にいる人たちに対して「『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。』と言われるのです。
なぜそのような違いが出たかと言えば、右にいる国を受け継ぐ人たちは、「わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。」といわれるのです。
左側にいる人たちには、「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかった」といわれるのです。
しかし、右にいて国を継ぐようにと言われた人たちも自分たちが何時その様な事をしたのかと尋ねるのです。受け継ぐと言われた人々も、自分たちが何時その資格を得ていたのかはわからないと言っているのです。
すると、この小さなものにしたのは、私にしたことであると言われるのです。神様に認められた人も自分で自覚して行った事ではなく、日々の行いの中で一番小さい者、世の中では一番取るに足らないものと思われているような人々に行った善行によって救われる者とされたと言うのです。
イエス様の教えである隣人愛の実践とは、大上段に構えて行うことではなく、日々の生活の中の何気ない行動の中にこそ現れるのではないでしょうか。
私たちは、果たして救われる方に入っているのかと心配になります。どの様にしているからと言ってはたしてイエス様が言われている通りの行動がとれているか心配になます。
しかし、そんな心配に対して少し安心できることもあるのではないでしょうか。それは、裁き主であるイエス様ご自身が、私たちの弁護者ともなって下さるのです。逆の言い方を言えば私たちのために命まで投げ出してくださり十字架にまでお架かりになって下さったイエス様が私たちの裁き主なのです。
そのようなお方が、私たちのことを厳しく裁かれるでしょうか。私たちの全てをご存じであり、その様な弱く罪深い私たちのための贖い主がさばいて下さるのです。その恵みを良くかみしめて感謝すべきでありましょう。
私たちの日々一日一日の生活の中にこそ私たちの救いのカギが隠れているのです。そのことを心に留めて、全てのことを行うことが出来ない自分を自覚しつつも、主の思いを心に留めて、再臨の時にはイエス様に喜ばれるものでありたいと願いつつ日々を過ごして行きたいと願うものであります。