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献身

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三枝禮三

イザヤ書53章4−6節 ローマ書12章1−2節

10月31日は宗教改革記念日です。宗教改革の火をつけたマルチン・ルターが、イザヤ書53章を講解している著作集を改めて読み直してみました。

その中で6節「わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。/そのわたしたちの罪を/すべて主は彼に負わせられた」を取り上げてこう言っています。−彼らはみな羊のように散らされた。一度迷い出ると、真の牧場から散らされた者を呼ぶ牧者の声を聴かなかった。それどころか、呼ばれれば呼ばれるほどいよいよ迷っていく。このようにわれわれはみな迷い出て、だれも救いへの道を持たなかった。 

それから、ルターは、修道士だった自分も実はそうだったと、次のような告白をしています。

私は確かに大いなる熱心と熱意をもって修道会則を守り、そのためにしばしば病気になり、死にかかりさえした。戒律を厳しく遵守し、飲まず、喰わず、眠らなかった。だがそこには、主の御腕の傷が欠けていた。彼の傷のことを知らなかった。平和をもたらす彼の罰がなかった。行いによって神を満足させ、仕方なしの行いから、十分に値する行いに至って、罪の赦しを獲得しなければならないとだけ教えられていたからだ。

その絶望の壁がルターの前で突き崩されて開かれるという事件が起こりました。それが福音の再発見と呼ばれる事件です。一言で言えば、神の義の発見です。それまで教えられてきた神の義は、それによって罪人を裁き罰する恐るべき義でしかなかったのに、キリストの贖いを通して示された義は、キリストを通して既に与えられている義であって、罪人を行いなしにそのまま義としてくださる神の義、即ち信仰義認の発見です。ルターはそのときの喜びをこう述懐しています。

「・・荒れまた混乱した良心が鎮められ、新たに生まれかわり、開かれた扉を通って楽園に入ったような感じがした。・・使徒がロマ書1章17節で神の義といっているものは、与えられた義であることに思い至ったからである。」ですから、ルターはこの「信仰義認の条項なしには教会は存立しない」とまで言っています。

ロマ書12章1節「こういうわけで、兄弟たちよ、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生ける生けにえとして捧げなさい。これこそあなたがたのなすべき礼拝です。」

キリストによって義とされ、今や神に喜ばれる新しい関係の中に入れられている。こういうわけで、あなたがたはその新しい関係にふさわしく生きて欲しいのだ、そう言っているのでしょう。即ち「自分の体を神に喜ばれる聖なる生ける生け贄として献げなさい」と。

自分の「体」が、6章13節では手足を含めた「五体」と訳されています。自分の存在そのもの、全存在です。
しかも「神に喜ばれる聖なる生ける生けにえとして」です。レビ記3,4章によると、贖罪の献げ物の場合、奉納者か祭司が献げ物とする牛の頭に手を置いてから、臨在の幕屋の入口で屠って献げることになっています。しかし、ここではそれとは違う「生けるいけにえとして」です。生身でいいのです。しかも、見かけは問題ではないのです。すぐ次の2節にはちゃんと「心を新たにして自分を変えていただきなさい」とある。

しかし、そもそもの最初に主イエスは何と言われたか。「人の子は仕えられるためではなく仕えるため、また多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(マルコ10:45)その主イエス・キリストが神に喜ばれる唯一の聖なる生けにえとして私たちのために既に献げられているのです。ですから、私たちは今や贖罪の牛に手を置くように贖い主なるキリストの十字架の上に、私たちの手も足も、全存在を投げかけ、委ねて、従うだけです。私たちのすることも、思うことも罪に染まったろくでもないものかも知れません。しかし、神に喜ばれる十分な献げ物である主イエス・キリストの上に、それらすべてを託し委ねて献げるだけです。キリストを信じてお委ねするなら、それだけですべてが義とされ神に喜ばれているのですから、なにをしても何を思ってもよいのであります。

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