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ぶどう園の譬え

ぶどう園の譬え
岸 敬雄 伝道師

申命記 24:14〜15  マタイによる福音書 20:1〜16

 聖書には幾つかの食物が出てきます。その中の一つが、ぶどうです。ぶどうは聖書全体で391ヵ所出てきてきます。新約聖書だけも62ヵ所、福音書の中には47ヵ所でてきます。
 それだけ聖書の中では、馴染みがある食物であると言えましょう。ぶどうは生でも食べますし、干して保存食にもなります。そして、ぶどう酒も作る大切な材料でもあるのです。
 ぶどうに関係するお話は、聖書の中に多くありますが、その中で、今回のぶどう園の譬え話は、他の福音書には見られない譬え話です。このぶどう園のたとえは、その前の章である19章30節の「 しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」との言葉を受けて説明するために行われたものでした。
 この譬えでは、ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行くのでした。これは一日の労働が日の出から、日暮れまでと決まっていたので、朝人々を集めに行くのには普通のことだったと考えられます。そして、主人は、一日につき1デナリオンの約束で、ぶどう園へ労働者を雇ったというのです。一日1デナリオンと言うのは、当時としては、1日に対価としては相応しい物でした。
 その後に、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので 『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と主人は言ったのです。ここではふさわしい賃金とだけ言っているのです。その後、十二時ごろと三時ごろにまた出て行きも同様に労働者を雇ったのです。
 そして夕方も近い 五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、 彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言ったのです。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言ったのでした。
 午後の5時になっても立っている人々とはどのような人々のことでありましょうか。誰も雇ってくれない、いわば見向き優れない人々です。しかし家に帰るわけにはいかない。もし働き口がなければ明日の食べ物にも事欠くその様な人々なのではないでしょうか。
 夕方になってぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言ったのでした。
 五時ごろに雇われた人たちから、1デナリオンずつ渡したのでした。すると、 最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていたのに彼らも1デナリオンずつ渡されました。
 それに対して、初めから働いていと人々が主人に『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』と不平を言ったのでした。しかし、この抗議は明らかに間違っていました。最初に1デナイオンで契約はしっかりとなされていたのです。その事を思い返さない人は、「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」と言われていることになってしまうのです。
 もちろんイエス様が言われた当時のことを考えれば先のものとはユダヤ人であり、後のものとは異邦人のことと考えることもあります。しかし、この主人が神様であるとするならば、私たちが先に神様の呼び声に聞き従って身元へと集まって来た者たちです。ある人は朝から、また12時から、そして5時ごろに呼び集められた者たちかもしれません。しかし、神様は分け隔てなく恵みを与えてくださいます。神様の恵みは充分であるはずなのに、より多く欲しがり、自分が後に者となってしまう事が有るのではないでしょうか。その事に気付き、再び最後のものとなって、神様に従い続けて行く事が大切なのではないでしょうか。神様は分け隔てなさらない方なのですから。

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