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いのちの言葉

いのちの言葉
岸 敬雄 伝道師

ダニエル書 10:10〜12  ヨハネの手紙一 1:1〜4

 本日読まれましたダニエル書は、理解するにはなかなかに難しい書であります。ダニエル書は、12章から成り、旧約聖書においては比較的短い書です。
 また、ダニエル書は大きく二つに分かれます。前半6章は、ユダヤの人々がバビロンに捕囚時に、ダニエルと言う少年と仲間の三人の少年がバビロンとメディア、ペルシアの支配者であったネブカドネツァル王の宮殿で仕えていた時の出来事が描かれています。
 後半6章は、ダニエルに与えられた一連の幻について描かれています。後半には幻の物語が書かれているため、ダニエル書は黙示文学の一つと呼ばれます。
 本日読まれましたダニエル書10章の最初の部分には、にペルシアの王キュロスの治世三年のことであると書かれています。この年はユダヤの人々がバビロン捕囚から解放した年だと言われています。
 本日の幻をダニエルが見たときは、ダニエル自身は、計算すると80歳半ば過ぎがそれ以上になると思われます。そして、ダニエルは、三週間にわたる嘆きの祈りをし、一切の美食を遠ざけ、肉も酒も口にせず、体には香油も塗らずにいた、と語っています。
 その後に、「わたしはひとり残ってその壮大な幻を眺めていたが、力が抜けていき、姿は変わり果てて打ちのめされ、気力を失ってしまった。」といいます。
 神様の使いに圧倒されて、力が抜けて倒れてしまったと言うのです。そして自分ではどうすることも出来なくなった時に、神様の使いの方から手を伸ばして触れて下さったのです。
 力を失っていたダニエルに対して神の使いは、「愛されている者ダニエルよ、わたしがお前に語ろうとする言葉をよく理解せよ、そして、立ち上がれ。わたしはこうしてお前のところに遣わされて来たのだ。」と、話しかけられたのでした。
 神の使いは、皆さんにも触れて下さったのではないでしょうか。それは、ダニエルの様に幻と言うのではなく、聖書を通してであったり、親しい人の言葉であったり、思いもよらない経験を通してであったかもしれませんが。その経験は、喜ばしい経験喜ばしい経験より、むしろ苦しい経験を通してであることが多いかもしれませんが。しかし、私たちも、「神様から愛された者よ」と言われているのではないでしょうか。
 神様からの直接の言葉は聞いていないかもしれませんが、わたしたちに対して、イエス様の十字架は、確かに神様がわたしたちを「愛された者」と語りかけていらっしゃること示してくださっています。
 最愛の独り子を私たちの罪のために、十字架におかけになり、最も残酷な刑である十字架に付けることをお許しになったのであります。
 そして、私たちに対する愛を神様は、お示しくださったのです。神様の使いはダニエルに向かって、さらに「わたしがお前に語ろうとする言葉をよく理解せよ、そして、立ち上がれ。」と言うのです。
 私たちも、神様に愛されていることを、そして、神様が語られるいのちの言葉をよく理解する必要があります。それは、自分が何をするべきか、何ができるかということを知ることでもあります。私たちを愛する神様がわたしたちに無理を言われことは有りません。
 ヨハネの手紙には、「わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。」と言っています。初めに神様の方から触れて下さいました。そして、「わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたもの」として伝えていくのです。それはまさに、命のことばについてです。
 旧約聖書では、幻として示されていた命のことばは、まさに、新約聖書において主イエス・キリストとして、そして、イエス様の福音として私たちに示されているのであります。これはまさに神様からの呼びかけであり、私たちは、この神様からの呼びかけに答えて日々を過ごして行くのであります。

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