百人隊長の信仰
岸 敬雄 伝道師
マタイによる福音書 8:5〜13 詩編107:2 3〜43
本日は百人隊長の癒しのお話です。この物語は、マタイによる福音書で、イエス様がメシヤであると証しする為の二番目の奇跡物語となります。初めの奇跡は、同胞であるユダヤ人の重い皮膚病の人をいやす奇跡でした。二番目の奇跡は異邦人である百人隊長の僕をいやす物語となります。はじめに、「さて、イエスがカファルナウムに入られると」と言われます。「入られる」というのは、外から帰って来たと言うような意味があり、4章で言われているようにカファルナウムと言う土地はイエス様が伝道を始めた特別な土地であります。
イエス様が、そのような土地に戻ってこられた時、百人隊長がイエス様に近づいて来て懇願したと言うのです。そして、「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます」と、行ったのです。
主と言う言葉は、色々なニュアンスがあります。軽い敬意を含んだ呼びかけから、自分が仕えている主人、先生、そしてイエスの絶対的な権威を認め、神と同意語として使われる場合もあります。
この百人隊長が主と呼びかけているのは、私たちが救い主なる主イエス・キリストと、信仰を言い表す時に近い思いを示しているものあります。
百人隊長がこのような信仰をどの様な手立てで身に着けたのかは分かりません。しかし、イエス様に対する信仰が確かにローマ市民であり支配階級である百人隊長にまで福音が及んでいたことを、この物語は物がたっています。
百人隊長は、「わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます」と言ったのでした。
そして、わたしの「僕」と言われているのは、わたしの子とも訳す事が出来る言葉であり大切な人物として考えられている人であることは確かでありましょう。
それに対して、イエス様は「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われたのです。当時の敬虔なユダヤ人は決して異邦人の家に自分から入ろうとはしなかったのです。しかし、イエス様は違ったのです。それに対して百人隊長は、「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。」と答えて、イエス様の申し入れを自分の方から辞退しているのです。
さらに百人隊長は、へりくだって「わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」と言ったのです。
イエスはこれを聞いて感心し、従っていた人々、すなわち、ユダヤ人の人々に言われたのでした。「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」そのように言われた後に、「言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」といつか遠くの異邦人まで福音が伝えられ、神様のみもとに呼び集められる時に、御国の教えをはじめに聞いた当時のユダヤ人は外の暗闇に追い出されてそこで泣きわめいて歯ぎしりをすると言うのです。
まさに、異邦人の信仰をほめるとともにユダヤ人の不信仰を見抜いておられるのです。そして、百人隊長に。「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」と言われたのです。そして、ちょうどそのとき、僕の病気はいやされた。
ちょうどその時とは、実際には後で確認しなければ百人隊長も分かる事は出来なかったはずですが、イエス様が話されて居たときであり、いわば、イエス様は私たちが捕らわれているは時間にとらわれていることなく、私たちの時間を超えて働かれるということを示しているのです。この時間を通り越した救いが私たちにも与えられているのであります。