過去の説教

慈しみを喜ばれる神

慈しみを喜ばれる神
大坪章美牧師

コロサイの信徒への手紙 2 章 6〜15 節

ミカ書7:1〜7節は、ヒゼキヤ王の息子である南王国ユダの第14代国王、マナセが支配していた頃のミカの預言が語られています。1節で、ミカは、「悲しいかな、わたしは夏の果物を集める者のように、ぶどうの残りを摘む者のようになった」と、悲嘆に暮れています。これは、神の都エルサレムに、本来あるべき果実、即ち、“正義”という果実を豊かに実らせている木が、一本も無くなってしまったとの嘆きの言葉です。

ここに、神の、救いの言葉が語られます、11節です。「あなたの城壁を再建する日、それは、国境いの広げられる日だ」と、預言されています。ミカは、目前の神の裁きを見逃しません。ミカの言葉は、神が語っています。目前に迫った“懲らしめ”があってこその、イスラエルの回復なのです。

18節でミカの賛美が捧げられています。「あなたのような神が他にあろうか。咎を除き、罪を赦される神が」と歌っています。「神様ご自身が、“慈しみ”を喜ばれるからだ」とミカは語っています。イスラエルの民が、神との契約に対して不誠実であって、裁きを受ける事はあっても、“神の慈しみ”は変わらないのです。

コロサイの信徒への手紙は、紀元60年頃、使徒パウロがローマの獄中で書いたものであると、考えられています。そこへ、エパフラスが訪ねてきて、コロサイ教会に発生した、危機についてパウロに報告し、その結果生まれたのが、コロサイの信徒への手紙でした。

パウロは、「キリストの神性」は、グノーシス主義者のように、自らを、周囲から閉ざした中で、ひそかに与えられるのではなくて、「教会の中で与えられること」を、強調しています。

11節でパウロは、「あなたがたは、手によらない割礼を受けた」と言っておりますが、「手に依らない割礼」は、「自然に、強制されることなく」、“心の割礼を受けた”ことを意味しています。12節では、「洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです」と、記しています。

茲で、私達は、ひとつの疑問に直面します。「わたしたちは、既に復活させられた」という言葉は、グノーシスが好んで用いる、「復活は、既に起こった」という異端の考えと一緒ではないか、・・という疑問です。・・然し、茲には明確な違いがあります。それは、グノーシスの考えでは、そこに「救う者と、救われる者との融合」即ち、「自分自身が悟りを開いた者」と主張している点に、根本的な違いがあります。私達、キリスト者にとっては、“救い”とは、「罪からの解放」であって、私達を“信仰による自由”へと導くものなのです。

パウロは、続けて記しています、「神は、わたし達の一切の罪を赦し、規則によってわたし達を訴えて、不利に陥れていた証書を破棄されて、これを十字架に釘づけにされて取り除いて下さいました」と、述べています。パウロは、「神が、わたしたちの一切の罪を赦して下さった」と、断定して、その理由を、二つ述べています。主イエス・キリストの罪の贖いの理由です。

「証書」と言いますのは、自らが書いた証文のことです。この証書には、法律上の約束事が表現されていますが、果たすべき義務が自分の能力を超える場合、この証書は、証書を書いた人を厳しく責め、その人の存在に逆らう程の威力を持つことがあります。

然し、この書いた人にとって、担いきれない程の義務が記録されていた証書が、突然、「無効になった」というのです。この無効とされた証書は、「十字架に釘づけにされた」というのです。そして最後に、神様は、諸々の勢力や権威の武装を解除されて、敗北した諸勢力を、キリストの勝利の行列の後ろに従わせられたのでした。これが、主なる神様の、“慈しみ”の結果です。

ここにきて、私達は、再び、預言者ミカが歌った、「あなたのような神が、ほかにあろうか。咎を除き、罪を赦される神が」という賛美を思い起こします。まさに、ミカの預言が、「この、わたし達の証書を、十字架に付けて無効にして下さり、罪の勢力を、後に従えて凱旋行進される神様」の内に、成就しているのです。

アーカイブ