過去の説教

愛と誇りの証し

愛と誇りの証し
大坪章美牧師

コリントの信徒への手紙二 8 章 16〜24 節

サムエル記17章は、ペリシテ人とイスラエルの戦いが描かれています。ペリシテ人が軍隊を召集したのはユダのソコとアゼカの間でした。一方、サウル王とイスラエル兵もここに集り、エラの谷に陣取りました。

ダビデは、ユダのベツレヘム出身の、エッサイという人の息子で、7人の兄が居たことが記されています。そして、上の3人は、サウル王に従って、この、ペリシテ人との戦いに出征していました。このような時に、ベツレヘムの自分の家で、エッサイは、息子ダビデに言ったというのです、「兄さんたちに、この、炒り麦1エファと、このパン10個を届けなさい。陣営に急いで行って、兄さんたちに渡しなさい。このチーズ10個は、千人隊の隊長に渡しなさい。兄さんたちの安否を確かめ、その、“しるし”を、貰って来なさい」と、命令しました。父親のエッサイは、「兄たちが、確かに荷物を受け取った」という“証拠”を持ち帰るよう、命じたのです。そうすれば、それが、「兄たちが、生存していること」の証し、となるからでした。エッサイは、賢明な方法で、前線に居る兄たちの生存の証しを、ダビデに、持ち帰るように、命じたのでした。

新約の時代になってからのことです。パウロの第3回伝道旅行中のこと、彼は、エフェソにおよそ3年間も滞在して、伝道に励み、エフェソの教会の基礎を築きましたが、その間に、コリントの信徒への手紙一を書きました。これが、コリント教会への二通目の手紙です。この手紙を書いた後、パウロは、コリント教会との関係が悪くなることを避けて、関係を修復するために、急遽、2度目のコリント教会への訪問を実行しました。しかし、残念なことに、この、二度目のコリント教会訪問は、惨めな結果に終わってしまうのです。

その主な理由は、コリントの信徒達が、分派争いをしている所に、パウロに批判的な、巡回教師達がやって来たからでした。そして、彼らの扇動と影響によって、パウロが使徒である事を、公然と批判する信徒まで現れるようになったのです。パウロは、そこで、コリントの教会にいたたまれず、この2度目のコリント訪問を中断して、エフェソに帰ってしまったのでした。

そして、パウロは、みたび訪問する代わりに、「涙の手紙」と呼ばれる、3通目の手紙を書いて、愛弟子テトスに持たせて、コリント教会に派遣したのです。そして、パウロ自身も程なく、紀元57年の5月頃、滞在先のエフェソを後にして、北に向かい、マケドニアに渡りました。パウロは、その時の気持ちを、7:5節以下に記しています。そこには、「マケドニア州に着いたとき、私たちの身には全く、安らぎが無く、ことごとに苦しんでいました。外には戦い、内には恐れがあったのです。しかし、気落ちした者を力づけて下さる神は、テトスの到着によって、わたしたちを慰めて下さいました」と、告白されています。神様は、奉仕する者を、苦難に会わせない、のではなく、その戦いの中で、苦しむ者に、憐れみを与えて下さるのです。

このように、パウロの「涙の手紙」に応答したコリントの人々の様子をテトスから聞き、パウロは喜びの内に四通目の手紙を書きました。それがコリント信徒への手紙二1〜9章です。8:16節以下はエルサレム教会を支援する献金の事で、コリント教会へ派遣した使いの者達をパウロが熱心に推薦している箇所です。

パウロは、「あなた方の“愛の証し”と、あなた方の事で私達が抱いている“誇りの証し”とを、諸教会の前で見せて下さい」と願っています。彼は募金活動が、「愛と誇りの証し」になる、と主張しています。具体的には、“愛”は、「コリントの人々がエルサレム教会の聖なる者達に示す“愛”」です。“誇り”とは、「パウロがコリントの人々に抱いている“誇り”の事」です。

その時よりも、一千年も前に、ベツレヘムの長老エッサイが、ペリシテ軍との最前線で戦っている息子の安否を確認するために、ダビデに「食料の受領サイン」を証しとして持ち帰るように命令しましたように、パウロは、コリントの教会の信徒たちに対して、「愛と誇りの証し」を、募金活動に協力することによって、示してほしい、と願っているのです。

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