過去の説教

導いて下さる神

導いて下さる神
大坪章美牧師

ヨハネによる福音書 10章1〜6節

紀元前1220年頃、モーセに率いられてエジプトを脱出したイスラエルの民は、シンの荒れ野を歩いて、三月目に、シナイ半島の南の端にある、シナイ山の麓に到着しました。そこで、主なる神様は、モーセに十戒と、律法を授けられ、民と契約を結ばれたのです。

然し、その頃、シナイ山の麓では大変な事が起きていました。アロンは、イスラエルの民に、「耳に着けた金の耳輪をはずして、わたしの所に持って来なさい」と言って、持ってこさせ、のみで型を造って、鋳物の子牛像を造ったのでした。イスラエルの民は、祭壇を築いて、「次の朝、焼き尽くすいけにえ、即ち燔祭を捧げて、飲み食いし、立って戯れた」と記されています。

主は、直ちにモーセに仰せになりました。「わたしの怒りは、彼らに対して燃え上がっている。わたしは彼らを滅ぼし尽くし、あなたを大いなる民とする」とまで、言われました。モーセは、神様に嘆願しました。「どうか、燃える怒りをやめ、ご自分の民に降す災いを思い直してください」と願いました。

そうしますと、主なる神様は、お答えになりました、出エジプト記33:17節です、「わたしは、あなたのこの願いも叶えよう」と、モーセに約束されたのです。「神が共に行って下さる」。イスラエルの民は、「神が共に行って下さる」民であるから、意義があるのです。

出エジプトから、およそ千三百年も経った紀元30年頃のエルサレムでの出来事です。イエス様は、ユダヤ人達の頑なな魂に対して、厳しい宣告をされました。茲でイエス様と対立している人々は、使徒パウロが、ローマの信徒への手紙2:20節に記している人々です。パウロは、ユダヤ人、特に、律法の精神を忘れて、字面だけを厳格に守らせようとするファリサイ派の人々を攻撃しました。彼らファリサイ派の人々は、「自分達こそ民衆を導く牧者、即ち、羊飼いである」と高言して、ユダヤの民衆を導こうとしていたのです。

こうして、“律法の解釈”を盾に取る“ファリサイ派”である、「自称、羊飼い」と、「永遠の命へ人々を導かれる」イエス・キリストという「羊飼い」の、どちらが本当の羊飼いなのか、の真偽、嘘か真か、を争うことになったのでした。そこで、イエス様は、「正しい門を通って来るもの」こそが“真の羊飼い”であると、認められて、反対に、「正しい門を通らずに、不法に、塀を乗り越えて来るもの」を、偽者と分類されて、ファリサイ派の人々の本質を、「盗人」であり、「強盗」であると、断定されたのでした。

10:3節で、イエス様は、さらに具体的に示されました。「門番は、羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは、自分の羊の名を呼んで、連れ出す」と、仰いました。ここで、門番と言われているのが、主なる神様です。神様は、真の羊飼いである、イエス様にだけ、門を開け、イエス様は羊小屋に入って、弟子たちである羊と一緒になられるのです。そして、門の中に入った羊飼いは、一匹一匹、自分の羊の名を呼んで、囲いから連れ出し、自分の羊をすべて連れ出すと、その先頭に立って行く、と記されています。「すべて連れ出す」と言われていますように、「イエス様は、一匹の羊も、ひとりの信仰者も、ゆるがせになさらない」ということが語られています。そして、羊飼いは、「先頭に立って、歩く」のです。後ろから、羊を追い立てることは、決してされません。

また、5節では、「然し、他の者には決してついて行かず逃げ去る」と話されましたが、それは羊飼いの方が自分の羊を良く知っている、という事を意味しています。逆に神様の召しを受ける事も無く自分勝手に「羊飼い」を名乗るような、ファリサイ派の人々は、偽物の羊飼いですから、羊が彼らに従う事はありません。

このように、「“真の羊飼い”は、自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って歩く」と、イエス様は、言われました。この、真の羊飼い、即ち、イエス・キリストのお姿の中に、かつて、モーセの懇願を聞き入れてくださり、ご自分を裏切って偶像礼拝に耽ったイスラエルの民と共に歩いて下さって、約束の地へと導いて下さる、神様のお姿を見るのです。

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