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わたしの平和を与える

わたしの平和を与える
大坪章美

ヨハネによる福音書 14 章 22-28節

父なる神様は、イザヤ書55:11節の後半で、「神の言葉は、神の望むことを成し遂げ、神が与えた使命を必ず果たす」と言われています。神の言葉は、のちに、ナザレのイエス・キリストとして受肉され、人間となられ、メシアとしての働きをなさいました。

この、同じ神の言葉が、第二イザヤの時代には、バビロン捕囚の民に働かれ、ペルシャの王、キュロス二世に働きかけて、解放の勅令を出させ、捕囚の民をバビロンから、また、各地から集めて、故国ユダの地に、都エルサレムへと導いたのです。

12節には、「あなたたちは喜び祝いながら出で立ち、平和のうちに導かれて行く。山と丘はあなたたちを迎え、歓声を上げて喜び歌い、野の木々も手を叩く」と、記されています。解放されたイスラエルの民に、もはや、危害を加える者はありません。父なる神様の導きの故に、「平安」があります。悔い改めて歩き始める者には、謙虚と希望があるだけで、過去は、もはや、現在も、未来をも規定するものではありません。

次に、新約聖書に移ります。イエス様が、過ぎ越しの祭りの前日の夜、とある、エルサレムの町の家の2階の広間
で、夕食を共にされていた時のことです。イエス様は、最後の晩餐の後で、訣別説教をされました。

14:22には、イスカリオテではない方のユダが、「主よ、私達には、ご自分を現わそうとなさるのに、世には、そうなさらないのは何故でしょうか」と、尋ねた事が記されています。茲には、ユダの誤解がありました。イエス様が、「わたし自身を現す」といわれたのは、あくまでも、「“霊”のお体で現れる」、即ち、イエス様が十字架の上で死なれた後、三日目に甦えられて、「“復活のお体”を現される」と仰ったのでした。“霊”のお体は、信仰が無い人には、見えないのです。

イエス様は、23節でお答えになっています。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとは、その人のところに行き、一緒に住む。わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない」と言われました。イエス様のお言葉を守る者、即ち、イエス様を愛する人の許にだけ、神様はイエス様と共に来てくださって、“住まい”を共にしてくださるのです。こうして、明日には自ら、十字架に上られるイエス様が、弟子たちとの別れに臨んで、話されるべきことは、話し終えられました。

イエス様は27節で、「わたしは平和を、あなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな」と、仰いました。イエス様の“死”によって、弟子たちが直面する事態というのは、まさに、“この世との戦い”です。“この世”とは、世の人々の敵意や憎しみ、さらには、この世のサタンなどを相手とする、“霊の戦い”を意味しています。

イエス様は、このような戦いの中にあっても、決して奪い去られることのない、“平安”を、弟子たちに残してゆく、と言われています。イエス様が与えて下さる“平和は”、「戦争が無い状態」のことを言われているのではありません。「戦いの中でも、揺らぐことのない平安」を、与えて下さるのです。わたしたちの生活の中で、不安や、心の動揺がどんなに激しくても、それをしっかりと支えて下さる、“平和”を、わたしたちに与え、残して下さる、と仰っているのです。

それは、まさに、イエス様の時代より遡る事550年も前の預言者、第二イザヤが語った主のみ言葉、「あなた達は喜び歌い乍ら出で立ち、平和の内に導かれて行く。山と丘はあなた達を迎え、歓声を上げて喜び歌い、野の木々も手を叩く」という預言に重なるのです。

捕囚から解放されたイスラエルの民も、祖国の復興や、それを妨げる勢力との戦いは残っていましたが、二度と奴隷になることはなく、平和を与えられて、希望をもって復興にあたったのです。イエス様の弟子たちも、イエス様は天に帰られましたが、イエス様の名によって与えられた聖霊の力に助けられて、地の果てまでも、希望に燃えて伝道し、その働きは今に至るまで続いています。

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