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御言葉は豊かに実を結ぶる

御言葉は豊かに実を結ぶる
大坪章美

マルコによる福音書 4 章 13-20 節

イザヤ書55章は、第二イザヤの預言の、最終章に該当する部分となります。第二イザヤは、紀元前6世紀の後半頃に生きた、無名の預言者でありました。恐らく、第二イザヤが生まれた頃でしょう、紀元前587年に、南王国ユダは、バビロニアに攻め滅ぼされ、王族や指導者たちの多くは、バビロンの郊外に捕らえ、移されました。これを、バビロン捕囚と呼んでいます。

その後、第二イザヤは、神の言葉を語り始めました。それは、捕囚の辛さに耐え得る、希望を与えるものでした。バビロンに囚われの身になっているユダの人々に、解放が近いことを告げ知らせたのです。

そして、現実は、イザヤの預言どおり進みました。紀元前538年、東から起きた新興国ペルシャの王、キュロスがバビロニアを滅ぼした事によって、イスラエルの民の、バビロンからの帰還を許したのです。然しイスラエルの民は、バビロン捕囚から解放されて、ユダの地へと、帰っては来たものの、困窮の中にあえいでいました。主なる神様は言われます。「わたしに聞き従えば、良いものを食べることが出来る」と仰るのです。それ故に、「主を尋ね求めよ」と言われるのです。
人は、苦悩の中で時が経過する時、闇の深さと長さの中で、迷い、さすらい始めます。神への信仰を離れて、己の“道”と、“思い”に、のめり込みます。

何故、これ程迄に、神様は、イスラエルの民を、愛されるのでしょうか。茲では、神様は、「わたしの思い、わたしの道」は、「あなた達の思い、あなた達の道」とは異なる、と言われています。両者の間には、“永遠の質的な差異”があります。この両者の断絶を埋めるものが言葉であって、人と世界は神の言によって造られた存在ですから、神の言葉によって、連続するのです。

ここは、譬えで語られています。天と地を結ぶものは、雨や雪です。恵みが一方的に、神から来ることを示しています。雨も、雪も大地を潤し、大地に働きかけて、人間に稔りをもたらします。このように、「神の口から出る言葉も、むなしく神に帰ることは無い」と言われます。この神の御言葉こそ、「人の思いと、人の道」に盲目的になっていたバビロン捕囚の民に対して、「神の道」を開いて下さるのです。

イザヤの時代から時が流れ、イエス様が神の言葉について語られました。「種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである」と記されています。御言葉は、教会では無くてはならないものであり、「わたし達は、御言葉に生かされている」という表現さえ用いられています。然し御言葉には、もうひとつの意味があります。それは、「御言葉が語られ、御言葉を聞くだけでは、十分ではない」、ということです。その次の段階、即ち、「御言葉を聞くことによって、わたし達の現実の生活がどのように変わってゆくか」ということが、大切なのです。

種を蒔く人が、“種”即ち御言葉を蒔きました。種を蒔く人はイエス様で、種はやがて神の国へ成長する御言葉です。土の中に蒔かれた種は、土の中の水分を吸収して日々成長し、やがて芽を出し土の中から栄養分を摂取して、豊かな穂を実らせます。穂がたわわになりますと収穫時になり、刈り入れが始まります。このように一旦地面に蒔かれた種は、地に落ちたままではありません。発芽し穂をつけ、刈り入れを待つのです。

そして、この種は、神の国へと成長する種です。私達はイエス様の御言葉を聞いた時からもう、刈り入れに至るエスカレーターに乗せて頂いたも同然なのです。

こうして、わたしたちは、種を蒔く人から御言葉を良い土地に蒔いて頂くためには、三つのことに気を付ければよいことになります。一つ目に、先ず御言葉を聞きましょう。いろいろな不都合を乗り越えて、御言葉を聞くのです。二つ目に、御言葉を聞いたら、受け入れなければなりません。いろいろと抵抗があっても、受け入れることが大切です。そして三つ目に、御言葉を行動に移すのです。その稔りは、30倍か百倍か分かりませんが、いずれにしても増やして頂けるのです。この三つのことに気を付けるならば、イザヤが語った神の言葉、「神の口から出る言葉も、むなしく神に帰ることが無い」という言葉が実現するのです。

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