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枯れた骨の復活

枯れた骨の復活
竹井 剛

エゼキエル書 37 章 1-10 節 ローマの信徒への手紙 8 章 1-10 節

本日の聖書箇所には、枯れた骨に預言をする、神の言葉を語る、するとその骨に筋が置かれ、肉を付け、皮膚で覆い、霊を吹き込まれて、生き返り、そして自分の足で立って、それが大きな集団になったという出来事が記されています。これは単に昔あった出来事を書き記しているのではなく、ここに書かれている言葉は今も生きて働く、神の言葉です。私たちがここから示されることはこの聖書の言葉を信仰をもって語っていくときに、実に驚くことが起こるというのです。すなわちこの枯れた骨もよみがえるのです。 

預言者エゼキエルは神の霊によって谷底に降ろされます。そこでエゼキエルが見せられたものは無数の枯れた骨が散在するおぞましい光景でした。そして神はエゼキエルに御言葉を示し、それを語るように命じられ、彼がその通りに枯れた骨に神の言葉を語ると神の出来事が起こりました。いたるところに散在し、枯れ切っていた骨と骨とが近づいて、よみがえったのです。私たちの理性から見ますと、枯れた骨から一人の人が復活するばかりか、多くの人が肉を付け、皮膚をつけてよみがえるなど考えられない出来事です。しかし、主の言葉が語られるなら、その枯れた骨から、人がよみがえるのです。エゼキエルは神から示された言葉を聞いて、そして聞くだけではなく神の言葉を預かって、語ったのでした。キリスト者もこの預言者同様に聖書の言葉を聞く者であり、また預かった者です。わたしたちも神の言葉、御言葉を告白する、語ることが大切です。

枯れた骨が現わしていることは、当時で言えば、希望を失ったイスラエルの民の姿を指しています。そして私たちに目を転じれば、谷の真ん中に渇いた骨がある。それは、私たちが失望と絶望のどん底に置かれている状態を現わしています。しかしどん底から抜け出していく鍵は神の言葉、聖書の言葉を信じて告白し続けることです。神の言葉が実現すると信じて、語り続けるならば音がする。カタカタと音を立てて、骨と骨とが近づき、筋と肉が生じ、皮膚がその上をすっかり覆います。そしてその体に、霊が入るとその人は生き返る。霊が入らないと人は生き返りません。神の霊、聖霊を受けるときキリスト者はより命にあふれて生きるようになります。霊は人の目には見えません。目には見えないけど、聖霊なる神は生きて働かれています。私たちが神の言葉に信仰をもって向き合い、心を開いていく時、神の霊、神の命が豊かに私たちの内に注がれてきます。

まさにローマ信徒への手紙8章11節で言われている「イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなた方の内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方はあなた方の内に宿っているその霊によってあなた方の死ぬはずの体をも生かして下さるでしょう」との御言葉が実現します。私たちの死ぬはずの体にキリストを復活させた聖霊が宿られ、私たちの失望し渇き切った霊は神の豊かな命に満たされます。

同時にそれは神の愛に気づくという事です。主イエスは私たちのために十字架にかかって私たちの罪をすべて負ってくださったのです。聖霊が内に住まわれるということはこの十字架のキリストによって私たちが神と愛の関係に、親子関係にしっかりと入れられていることを一層確信させられるという事です。神の霊が私たちの内に宿っているなら、霊の支配、神の愛の支配の中にあり、キリストに属する者、神の子とされている喜びがあふれ、神の命が脈打つのです。神の言葉を語る。告白するという事はまさにこのような失望から喜びへ、死から命へとキリストの十字架故に神の霊によって転換させていく、実に壮大な出来事が起こるのです。

たとえどんなどん底を通らされても、神の言葉を蓄え語りつつ通って行きます。谷底にいて、潤いも命もない枯れた骨を目の前にしていても、神の言葉を信じ、口で語る。するとキリストを死人の中からよみがえらせた方の霊が吹き入れられ、枯れた骨のままに終わらずに、それは確実によみがえります。
私たちは神の言葉を聞くという事と、語るという事の大きな救いを神から与えられていることを覚えて、この新しい一週間も神の霊によって導かれ祝福の内に歩んでまいりたいと願うものです。

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