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三位一体の神

三位一体の神
三枝 禮三

詩編 40章 8 節、ヘブライ人への手紙 10 章 9節

<コリントの信徒への手紙二 13章13節>「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように」この祈祷は三位一体の神の恵と愛と交わりを最もはっきり明証している御言葉です。折しも今日は、教会暦でも「三位一体の主の日」と呼ばれている聖日です。

ところで、古代教会の教父たちの昔から三位一体の神ということを説明するのには、いろいろ苦労してきたようです。例えば、一つの体の上に三つの頭を描いて説明しようとしたこともあるようです。すると早速ユダヤ教やイスラム教の立場から、キリスト教は頭が三つもある怪物のような神を拝んでいると馬鹿にされました。他方では、人間の理性や善性を貴ぶ立場から三位一体を否定しキリストの神性を否定するユニテリアンと呼ばれるような運動も生まれてきました。しかし、ここで先ずはっきりさせておきたいことは、父と子と聖霊は神が持つ三つの頭などというものではなく、唯一の神が世界と人間を創り贖い清めて生かすために躍動的にとり給う三つの在り方だということです。恰も、川に落ちて流されていく子供を助けるために自らも川に飛び込む救助者のように躍動的に身を挺する三つの在り方です。その消息を唯一の神の恵がとる三つの在り方だという明確な一語で古来からのさまざまな誤りを正してくれた神学者カール.バルトは、だからコリントの信徒への手紙二 13章13節は次のように訳されるべきだと言っています。

曰く、「それによって神の愛が働き聖霊の交わりが開かれ与えられる、わたしたちの主イエス・キリストの恵―そのような恵があなたがたすべてと共にあるように。」

<イザヤ書 48章 16節>「今、主である神はわたしを遣わし、その霊を与えてくださった。」アウグスチヌスは著書『三位一体』の中で、この御言葉について「預言者イザヤにおいては、キリスト御自身が来るべき降誕について、『主は今、わたしとご自身の霊とを遣わされた』そう語ったとされている」と言っています。旧約聖書でも三位一体の神が語られている訳です。しかし、キリストがいったい何のために遣わされてきたのかということが重要です。

<詩編 40 篇8章>これを受けた<ヘブライ人への手紙 10 章 9節>「『御覧ください。わたしは来ました。御心を行うために』と言われています。…この御心に基づいて、ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、わたしたちは聖なる者とされたのです。」御子キリストが遣わされてきたのは、人間の身代わりにご自分を十字架上に贖い代として献げるためだった。しかもそれが父なる神の御心に基づくことだった。

神の三位一体はゲッセマネとゴルゴダを内側に抱えているのです。

<ヨハネによる福音書 14章>「主よ、わたしたちに御父をお示しください」と言うフィリポにイエスは言われます。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。」なんと断固としたお言葉でしょう。キリストを他にしては神は何処にもいまさないのです。そのことを信じさせてくれるのが聖霊です。しかも、ついにはすべての舌が「イエスは主なり」と告白して神を賛美することになるとあります。

三位一体は人間の救いに必要な手続きをすべて引き受けて下さる神の恵の在り方です。

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