主の愛
大坪章美
ヨハネによる福音書 14章 15-24節
今日お読み頂きました15節で、「あなた方は、私を愛しているならば、私の掟を守る」というイエス様のお言葉が記されています。そして、「主、イエス・キリストの御名によって」と、イエス様の名を呼ぶための前提条件を示されます。それは、「私の掟を守る」即ち、「互いに愛し合う」ことである、と言われています。天に帰られた、キリスト・イエスを、私たちはもはや直接的に愛することは出来ません。イエス様との愛の交わりは、天から送られる聖霊をとおしてのみ、維持されます。ですから、イエス様は、「もし、あなたがたが、聖霊を受けることを願うならば、“互いに愛し合う”という私の掟を守りなさい」と言われているのです。
イエス様は、続けて仰います、「あなたがたが互いに愛し合うならば、わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒に居るようにして下さる」と記されています。イエス様は、この弁護者を、“真理の霊”であると、言われています。「この方は、真理の霊である。世は、この霊を、見ようとも知ろうともしないので、受け入れる事が出来ない」と言われます。この世の人々は、この弁護者を受け入れる事が出来ませんから、キリスト・イエスの出来事とも、福音とも、教会とも無関係でありましょう。
イエス様は、「ご自分が再び地上に帰って来られる」つまり、再臨の約束について、話し出されます。「私は、あなたがたを、みなし子にはしておかない。あなたがたのところに、戻って来る」と、言われました。イエス様が来られるということは、聖霊の到来と一つの出来事、イエス様が聖霊に於いて現実に存在されることに他なりません。イエス様が来られることは、終末論で言うところの“再臨”ですが、ここに、終末論で言う“再臨”の出来事が先取りされる、と言うのです。
21節でイエス様は、「わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現わす」と、言われています。愛するということは、自分を愛する相手に現わすことなのです。それは、イエス様が再び来られる時なのです。これまで、イエス様のお言葉にじっと聞き入っていた、イスカリオテではない方のユダが、ふと顔を上げてイエス様に質問しました。22節です、「主よ、わたしたちにご自分を現わそうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、何故でしょうか」と尋ねたのです。
イエス様は、まず、言われました、「私を愛する者は、わたしの言葉を守る」。イエス様が御姿を現わされるのは、その人とイエス様との間の、人格的な一体の関係にある場合です。単なる第三者、傍観者に御姿を現わされることはありません。イエス様の御言葉を守る者、つまり、イエス様を愛する者の許にのみ、神様がイエス様と共に来られて、その人の内に住まわれるのです。
ここまで、お話ししてきて、イエス様が繰り返し仰る、「わたしを愛する者を、わたしも愛する」という、お言葉に、ためらいを覚えるのはわたしだけでしょうか。イエス様が、御姿を現わされ、聖霊を授けられるためには、「イエス様を愛しなければならない」と言われているからです。私たちは、「イエス様を愛したい」「愛している」と気持ちの上では考えるのですが、実際、具体的に為すべきことが分かりません。
しかし、安心しましょう、「先ず、私たちが直接イエス様を愛しなければならない」とは言われていないのです。ヨハネの手紙第一4:10節、「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して、私たちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに、愛があります」と、記されています。神様が先ず、私たちを愛して下さっているのです。
それでは、私達人間は、何もしないで良いのか、と申しますとそうではありません。続いて述べられています、「神が、このように私たちを愛されたのですから、私たちも互いに愛し合うべきです。」と記されています。
これは、イエス様ご自身の言葉でもあります。イエス様は、「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る」と言われています。私の掟とは、「互いに愛し合いなさい」という言葉に尽きるのです。