過去の説教

恵みにより、信仰によって

恵みにより、信仰によって
大坪章美

エフェソの信徒への手紙 2章1-10節

パウロは、エフェソにいる聖なる者たちに、「あなたがたは、以前は、自分の過ちと罪のために死んでいたのです。」と語りかけています。ここで、パウロは、キリストにおいて働く神の力と、その力が信じる者にどのように関係するか、と言うことを、彼らが神の救いの恵みに与る以前の自分を思い起こすことによって、理解させようとしています。端的に申しますと、彼らの、救われる以前の歩みは、「死んでいた」状態であった、と告げているのです。数々の過ちと、数々の罪の行為によって成り立っていた彼らの歩みを、「生きていながら、実は、死んでいた」と強調しています。「数々の過ちと、数々の罪」とは、彼らエフェソにいる異邦人キリスト者、或いはユダヤ人キリスト者たちが、ギリシャ的世界の迷信や、邪教の犠牲になって、悲惨な状態を経験したことを指しています。
4節の冒頭には、「しかし」という言葉があります。ここから、パウロの語り口が一変します。これまでは、エフェソの信徒たちが、そして、私たちが経験してきた、救われる前の、自分の力ではどうにも抗いようの無いこの世の諸霊に支配されて、死んだも同然であった身から解放されて、救われた喜びを語り始めるのです。イエス・キリストに対して為された御業を、主なる神様は、異邦人に、そして、私たちに繰り返し実行して下さっているのです。私たちが苦しみの状態にある時、人知れず悩みの底に沈んでいる時、その時こそ、主なる神様が働いて下さる時なのです。

パウロは、イエス・キリストが「死んで、甦り給うた」という出来事を前提にします。そして、私たちが、洗礼によって、このキリストの出来事の中に取り入れられるのは、どのようにして、であるかを明らかにしようとするのです。パウロは、紛れも無く、「私たちが、洗礼によって私たちの罪の為に死に、そして、イエス・キリストと共に復活させられた」と、主張しています。

パウロは、「新しい生命は、キリストと共に、神の御許に隠されている」と述べることによって、グノーシスとは異なる立場を明確に示すのです。それは、コロサイの信徒への手紙3:1節のパウロの言葉によって分かるのです。そこには、「あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座についておられます。」と記されています。パウロが、「キリストと共に復活させられた」と言っており、「もはや、この世にいない」と言っている言葉が、何を意味するかと申しますと、それは、「イエス・キリストの名によって洗礼を受けた以上、もはや、この世の諸々の霊の力に束縛されることなく、自由に於いて生きる」ということなのです。そして、グノーシス主義者の教えのように、「復活した者は、年老いることなく、不死の状態に留まる」などとは考えません。「洗礼によってキリストと共に復活させられた者の命は、キリストと共に、神の御許に隠されているのだ」と言うのです。事実、私たちは、救われた者としてこの地上の生涯を終えて、例外なく、眠りに就きます。しかし、キリストと共に、神の御許に隠されている命は、生きているのです。そして、その命は、キリストの再臨のときに、キリストと共に露わにされるのです。

そしてパウロは終わりに、「わたしたちは、その善い業を行って歩むのです」と言っています。この、「善い行い」は、9節で記された、「行い」、つまり、「人間が神に義とされるために実行しようとする行い」とは異なるものです。実に、この「善い行い」は、救われた結果、神がなさせて下さる業なのです。この「善き行い」は、恵みにより、信仰によって新しく造り変えられたキリスト者に対して、神様が可能にして下さる行為なのです。

私たちは、今日最初に読まれた2:1節で、「以前は、自分の過ちと罪のために死んでいたのです」と、言われた者でした。然し、神の恵みによって、また、信仰によって、新たに造り変えられ、今、「善い業を行って歩む者」とされています。今週も、新しい年も、善い業を行って歩む者でありたいと願います。

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