過去の説教

聞いて信ずる福音

聞いて信ずる福音
土橋 修

ガラテヤの信徒への手紙 3章 1-14節

パウロ書簡中「四大書簡」の一つが本書です。移植の文書。ユダヤ教「ナザレ派」が、「キリスト教」として独立し宗教改革を起した契機は、本書にあります。

宛先「ガラテヤの教会」は不分明ですが、手がかりは使徒言行録中の彼の第一次・第二次伝道旅行記に出て来る数教会の名です(13:1〜、15:36〜)。現トルコの中央高原地帯で、登場教会はその南部。

動機は、彼の伝道で福音の自由な喜びを知った教会に、後に律法主義を強調する伝道者が現われ、パウロの使徒職を否定、信徒らはそれに安易に流される様を知り、彼は悲嘆し憤激と激励の書を認めた。

「あゝ、物分かりの悪い〜」の表現は、必ずしも嘲り、謗りではなく、寧ろ愛と悲しみの表現。「惑わす」にはアダムを惑わした悪魔への訴えが背景に見えます。対する彼の言は「目前にハッキリと主イエスの姿」を示します。あたかも大プラカードに「十字架の主・イエス」を描くがの如くに。堂々の確信と誇りをもって、この方を掲げてデモをしようと言うのです。

斯かる堂々の弁は、心中に聖霊の力を受けた者のみが与えられるのです。福音を聞いて信じた者の賜物です。律法行為から発する、安易な肉の業に非ずとパウロは言うのです。この時彼自身の「目からうろこ」のあの回心体験が、その背景にあったことでしょう。迫害を受け肉に死に、霊に生きかえったこともあり、今さら霊による原体験を、肉の業でより戻すの愚かなどありえない筈を、パウロは彼らを叱りつけるのです。

「あれ程の体験」(4)とは、使徒言行録(14:19〜)の体験。リストラで迫害され「石打ち」に会い、城外に放棄されました。弟子たちの祈りにより、死の状態から彼は生きかえったのです。神の力の業は無駄に非ずの感強く、「霊と奇跡を行われる方の力」こそ、律法と肉の行いに優る真の神と証ししているのです。

アブラハムの名が突然出て来ますが、彼はユダヤ民族の代表的人物。宗教的にも代表的人格者。彼は律法の下にありつつ、実は真に霊的信仰者だったことは、聖書に明らか。先週の説教テーマでも深く学んだところです。特に独り子イサク献上(創・22)では、彼は律法の奥に神の声を耳にし、聞き分け、神の呼びかけに全く従順だった人です。彼こそ「聞いて信じ、神に義とされた人」でした。「だから、信仰によって生きる人こそ、アダムの子」と呼ばれる曲線が生じるのです。

「聖書は〜」(8)の句は、創世記12:2、18:18に基づくもので、旧約としては前人未踏の表現。キリスト教迫害者時代のパウロにとっては、受け入れがたいもの。然し、回心者パウロにとっては、アブラハムの内なる信仰を知った今、聖書の律法中には、信仰により異邦人の救も見込んだものと納得でき、その上で、聖書の審理即ち「信仰による凡この人の救いと祝福」を確信し、断言するのです。

次いではまた難問が飛び出します。「律法を守らぬ者は呪われる」とは何?律法は守るべく神より与えられたもの。心なき者は形式的に守り終る。予言者はこの為活動しました。彼らはその不信仰を責め、律法に帰れと人々の心に呼びかけました。心なき律法は神の給わった真の律法ではなくなり、それは寧ろ善行ではなく、「偽善」となり、呪と化すのです。

又々問題提起。「キリストは、わたしたちの為に呪となって〜」とは?呪いとは忌まわしきもの。福音に反するものでは?十字架の秘儀はここにあります。罪人の呪いを、自らが十字架の呪いにかかることで贖おうとされたのです。呪いを呪いで二重打ち消しを狙ったのです。十字架は斯くまで厳しく、深刻なまでに強い神の愛に根ざしたものなのです。

結局は、律法の行為が問題ではなく、律法の言を心中深く省み、これを心の耳で聞いて信じることなのです。「この律法を行わない者は呪われる」(:26)とある通りです。「主を愛さない者は神から見捨てられるがよい。マラナ・タ(主よ、来て下さい)」(コリント一16・22)。これほどまでの深慮遠望を持つ神の愛を汲める者は一体誰なのでしょう。

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