過去の説教

悔い改めという希望

悔い改めという希望
大坪章美

ローマの信徒への手紙 2章 1-4節

紀元前7世紀も、終りに差し掛かる頃、エレミヤは主の召命を受けました。時の南ユダの国王はヨシヤ王でした。つい、100年足らず前の722年には、同胞の北王国イスラエルの首都サマリアがアッシリア軍によって蹂躙され、殆どの民はユーフラテスの東へ連れ去られてしまいました。まさに、外には北からの敵、常時脅かす騎馬民族スキタイ人やキンメリア人の活動がありました。そして、衰えつつあるとは言え、アッシリアの脅威と、新しく台頭してきたバビロニアの侵略の前に、ユダは風前の灯の状況にありました。

こういう中で、家臣の期待を担って即位したのが弱冠8才のヨシヤ王でした。ヨシヤ王は期待通り、善王として側近たちの協力を得て、永年にわたり荒廃していたエルサレム神殿の修復に当たります。しかし、折も折、エジプトから北上するネコII世の軍に立ち向かったヨシヤ王は、メギドの戦いで戦死してしまいます。代わりにネコによって即位させられたのが次男のヨヤキムでしたが、彼はファラオの為にユダの国民に重税を課し、主の前に悪を行って偶像礼拝をしたのでした。エジプトの傀儡となり、ユダの国民に重税を課し,偶像礼拝に耽ります。エレミヤの危機感は募るばかりです。

ここから、エレミヤの告白が始まります。そして “嘆きの告白”で、彼は、自分が語った、民に悔い改めを求める預言を逆手に取られて、ユダの民、エルサレムの住人たちから嘲笑され、迫害されて、嘆きの祈りを捧げているのです。主から預かった預言の言葉を語ったがために、偶像礼拝を止めて唯一真の神ヤハウェに立ち返らなければ、北からの侵略があると預言したがために、エレミヤは迫害されたのでした。災いが実現しないからと言って、嘲笑されているのです。

そこに、主なる神様の啓示が示されました。エレミヤは、ある時、突然主の言葉を聞きました。「立って、陶工の家に下って行け。そこでわたしの言葉をあなたに聞かせよう。」。「エレミヤは、陶工の家へ下って行った」とあります。陶工は、ろくろを使って仕事をしていました。そして、形作っている器が気に入らなくなったら、それを自分の手で壊して、もう一度粘土の塊りにして、自分の気に入るように作り直すのでした。

エレミヤが、陶工の手元をじっと見つめていますと、再び主の言葉がエレミヤに臨みました。「イスラエルの家よ。この陶工がしたように、わたしもお前たちに対して為しえないと言うのか。」というものでした。しかし、私たちは、この、「ろくろの上に乗った粘土、即ち人間」が変わっていないという所に、神の愛を見出すのです。神様は、善い形にならない器を粘土に戻されますが、決して、棄て去りはしないのです。あくまでも、その粘土で、新しい器に作り変えられるのです。

神様は、人間が悔い改めることによって、思い直される神なのです。たとえ、災いの託宣を述べられても、人間が悔い改めれば、思いなおしてくださるのです。そして、悔い改めるまで待って下さるのです。

エレミやの時代からは、六百年程も後のことです。
その時、パウロは、ローマの信徒に宛てて手紙を書いていました。そして、2章でその矛先をユダヤ人に向けてゆきます。「ユダヤ人は、常に異邦人を審き、『罪人』と呼び、優越感を抱いていた。」と非難を始めます。 
パウロは、エレミヤが嘆いた、“イスラエルの民の偶像礼拝と、彼らが悔い改めることの無い頑なさ”を、50年代のローマのユダヤ人に見ているのです。パウロは4節で、「神の憐れみが、あなたを悔い改めに導く」と言っています。これこそ、エレミヤが主なる神から預けられた言葉でした。「悔い改めというのは、心の入れ替え、全人間の方向転換であり、さらにヘブル的には神に帰ることです。人間の生涯も、人類とユダヤの歴史も、そのすべての瞬間が神の慈愛の時であって、人間の悔い改めの時でありました。人生と歴史との真相は、神の慈愛と罪ある人間との出会い、即ち、悔い改めにあった。」のです。エレミヤの預言も、パウロの語る言葉も、神様の憐れみが人間の悔い改めを待っておられるということなのです。私たちの未来には、“悔い改め”という希望が与えられているのです。

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