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安息に与る約束

安息に与る約束
大坪章美

ヘブライ人への手紙 3章12節-4章1節

今日お読み頂いた聖書個所の冒頭部分は、古いユダヤ教の栄光に郷愁を覚えるユダヤ人キリスト者に対する警告の言葉で始まっています。「兄弟たち、あなたがたのうちに、信仰のない、悪い心を抱いて、生ける神から離れてしまう者が無いように注意しなさい」と記しています。この警告は、現実に、ローマにいるユダヤ人キリスト者のグループに、そのような動きがあったことを物語っています。そして、彼らユダヤ人の先祖が、かつて、主なる神に背き、神を試みるという悪い心を抱いた事例を引いて、彼らに悔い改めを迫るのです。それが、9節以下に記されています。「荒れ野で、あなたたちの先祖はわたしを試み、験し、四十年の間、わたしの業を見た。だからわたしは、その時代の者たちに対して、憤って、こう言った。『彼らはいつも心が迷っており、わたしの道を認めなかった。』その為、わたしは怒って誓った。『彼らを決してわたしの安息に与らせはしない』と」と、記されています。主なる神様は、彼らが、神様の力を疑い、神様の存在さえも疑って、その御言葉に従わない、という不従順を繰り返した為に、共にラメセスを出発した人々は約束の地へは入れない、と宣告されたのです。その為に、神様は、前の世代の人々が居なくなる迄の間、40年もの時を、荒れ野で彷徨わせたのでした。そして、カナンへ入る事が出来たのは、事実第二世代の人々であったのです。

この、ヘブライ人への手紙の著者は、このように、ユダヤ人キリスト者の父祖たちが犯した、神を試み、神に背く、という行為と、それに対する神様の怒りの裁きについて、歴史上の事実を示すことによって、彼らの、心の定まらない曖昧な態度に、警鐘を鳴らしているのです。イスラエルの民が堕落して、第一世代の人々が死に絶えるまで、荒れ野を彷徨わなければならなかったように、その後継者であるキリスト者も、自らが同じ罠に陥らないように警戒しなければならないと、忠告しているのです。

主なる神様は、「一体、だれに対して、ご自分の安息に与らせはしないと誓われたのか。従わなかった者たちに対してではなかったか」と、不従順な者に対する裁きを述べられます。「安息に与らせはしない」という言葉は、「安息の地、カナンへ入ることは許さない」という意味です。そして、この裁きの言葉が述べられたのは、「従わなかった者」に対してでした。神の言葉を信じないで、疑い、不平不満を言った者たちでした。

ですから、主なる神様がモーセに告げられた、「イスラエルの民にカナンの土地を与える」という約束は、未だ実現していないのです。モーセと共に脱出したイスラエルの民のほとんどは、不信仰の所為で、約束の地、カナンに到達する前に、荒れ野の中で死に絶えてしまったのでした。この事実を指して、ヘブライ人への手紙の著者は、言っています、4:1節です、「神の安息に与る約束が未だ続いているのに、取り残されてしまったと思われる者が、あなた方のうちから出ないように気をつけましょう」と記しています。

イスラエルの民の出エジプトを果たした第一世代の人々には、その約束が成就されませんでした。しかし、神の約束は、成就されることを求めているのです。何故ならば、神の約束が成就することなく、空しいままであることはあり得ないからです。つまり、この神の約束は、現在も未だ続いているのです。と申しますより、今の私たちにも当てはまるのです。旧約聖書の言葉が、福音という深められた形で新しくされて、約束は続いているのです。そして、その成就のための条件も変わりません。「神に従順であること」、「不信仰ではなく、信仰深くあること」です。ヘブライ人への手紙の著者は、ローマにいるユダヤ人キリスト者が、不信仰に陥って、神の救いの約束から取り残されることが無いように、と警告しています。

そして、私達現代に生きる者にとっても、地上の約束の地、カナンの霊的な対応である天のカナン、天の御国こそ、キリスト者である神の民の目標なのです。そこに入る為の唯一つの条件。自動的には入れません。それは、イエス・キリストを受け入れる信仰なのです。

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