過去の説教

喜びと真心をもって

喜びと真心をもって
大坪章美

使徒言行録 2章 37-47節

この日は、五旬祭、いわゆるペンテコステの日でした。弟子たち一同がエルサレム神殿の一角に集まっていた時、突然、天から激しい風が吹いてくるような音がして、彼ら12使徒はもちろん、弟子たちや婦人たち皆が聖霊に満たされたのでした。そして、この集まっていた大勢の弟子たちが、霊に満たされて、めいめい、他の国の言葉で語り出す騒ぎになりました。

驚いて、ペトロたち弟子の集団を遠巻きにして眺める数千人のユダヤ人たちを前にして、ペトロは、11人の使徒と共に立ち上がって、キリスト教最初の説教を行ったのです。「人々は、これを聞いて大いに心を打たれ、ペトロと他の使徒たちに、『兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか』と言った」とあります。このように質問したユダヤ人たちの口調には、困惑の響きが感じられます。この困惑の原因がどこにあるかと申しますと、過去のこと、既に起きてしまったこと、というより、起こしてしまったことと、自分たちの未来がどうなるのか、ということについての不安でした。

過去のことと言いますのは、ペトロが36節で語った言葉です。「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを神は主とし、またメシアとなさったのです。」と、ペトロは彼らを、“神殺し”の罪で告発したのでした。告発されたユダヤ人たちは、自分たちが行ったことについて、改めて、その罪の深さに、気が動転したことでしょう。そして、同時に、その罪の代償の大きさ、主なる神の裁きの大きさについて思いを巡らし、恐れと不安が極限に達して、いたたまれず、ペトロや使徒たちへのストレートな問いかけになったのでした。

ペトロは彼らに答えました。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦して頂きなさい。そうすれば、賜として聖霊を受けます。」と言ったのです。ペトロはこうして、他にもいろいろ話をして、「邪悪なこの時代から救われなさい」と命令して、語り終えています。

こうして、この五旬節の日、ペトロの説教と勧めを受け入れて、洗礼を授けられた人々は、三千人ほどであったと、記されています。
43節以下には、これまでに示したキリスト教共同体の構成員の生活の類型を、さらに詳しく説明するものです。まず、43節では、「使徒の教え」についての説明です。このように、数千の人々の共同体が熱心な信仰生活を行いますと、共同体以外のこの世の人々が教会を見る目も違ってきます。その反応が記されています、「すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって、多くの不思議な業としるしが行われていたのである。」と記されています。外の、世間の人々が恐れを抱いた原因が、「使徒たちによって行われた奇跡の業」にあるというのです。そして46節は、「パンを裂くこと」に関係します。「毎日、ひたすら心をひとつにして、神殿に参り、」とありますから、彼らは、ユダヤ教の神殿礼拝も行っていたのでした。そしてまた、礼拝堂の生活も行っていました。このように、独自の礼拝生活を行うようになって、その生活に共通したのが、共同の会食でした。「喜びと、真心をもって」一緒に食事をし、神を賛美した、と記されています。

ここで言われています「喜びをもって」という言葉の元の意味は、「大喜び、欣喜雀躍」という意味です。大喜びして、手の舞い、足の踏み場も知らない程、喜んでする一緒の食事、これは、神の国における、天上の宴会の前喜びを示す、特徴的な表現です。これほどに喜んで、神を賛美していたと、言うのです。

そして、著者ルカは、47節で、「主は、救われる人々を日々仲間に加え、一つにされたのである。」と記しています。もはや、この動きは、人間の力ではありませんでした。ペンテコステの日に、三千人ものユダヤ人たちが洗礼を受けたのも、日々救われて、仲間が増えたのも、決して、信者の熱心さや、清さではありませんでした。主、ご自身が、日々、救いの御業を進めておられるのです。

私たちは、使徒が残してくれた、キリスト教共同体の生活の在り方に従って生活すれば良いのです。結果は、主が、保証して下さいます。

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