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神の御業

神の御業
大坪章美

使徒言行録 19章 11-20節

パウロが、第三次伝道旅行に出かけていた頃のことです。さすがにエフェソは大都市で、同じユダヤ人共同体でも、これまでパウロが伝道してきたピシディアのアンティオキアや、テサロニケのユダヤ人たちのように、パウロをユダヤ人共同体から追放しようとするような、熱狂主義には遭遇しませんでしたが、全てのユダヤ人を、キリスト教に導くことはできませんでした。やはり、このエフェソでも、結局、ユダヤ教とキリスト教とは、互いに別れ別れになり、共に並び立つ存在になったのです。

パウロは、こうして、2年間もの間、エフェソで毎日、伝道をしていたのです。著者ルカは、この状況を、「アジア州に住む者は、ユダヤ人であれ、ギリシャ人であれ、誰もが主の言葉を聞くことになった。」と、喜んで記しています。エフェソでの伝道は、パウロにとっても、生きた伝道の良い機会でした。そして、パウロに与えられていた癒しの御業も、パウロの名前だけではなく、イエス・キリストの福音を全地に広めるのに力強い貢献をしたのでした。11節には、「神は、パウロの手を通して、目覚ましい奇跡を行われた。彼が身に着けていた手ぬぐいや、前掛けを持って行って、病人に当てると、病気は癒され、悪霊どもも出てゆくほどであった。」と記されています。この言葉の中で、「神はパウロの手を通して、」と、“神”が主語になっていることに注目しなければなりません。パウロが癒しの業を行ったように見えますが、パウロ自身の能力や特別な力によって行われたのではありません。あくまでも、神が行われる「神の御業」として、記されているのです。神様は、ご自身のものとして召し出した器を通して、力強く働かれるのです。ですから、その神の力は、パウロ自身だけではなくて、パウロの身に着けていた手ぬぐいや、前掛けにまで及ぶのです。

しかし、いつの世にも、この「神の御業」の“特別なこと”だけに注目して、これを利用しようとする者が現われてくるものです。この時も、イエス様とパウロの名前を、ユダヤの魔術を行う際に、“奇跡的な力を生み出す呪文”として用いようと、試みる者が現われたのです。ルカは、ユダヤ人の祭司長、スケワという者の7人の息子たちが、悪霊に取付かれている人々に向かって、試みに、主イエスの名を唱えて、「パウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる」と言ったと記しています。これは、「イエス様のお名前」が、おまじないのように使われ、試されたということに外なりません。そして、「悪霊に取りつかれている男が、この祈祷師たちに飛びかかって押さえつけ、ひどい目に遭わせたので、彼らは裸にされ、傷つけられて、その家から逃げ出した」と、記されています。つまり、主なる神様が、パウロの手を通して行われた奇跡は、“神様がそれをなさろうとする時に限って”行われるのです。そして、神様はそれを、パウロの手によって、或いはパウロが身に着けていた手ぬぐいや、前掛けを用いてでも、なそうとされたのです。この、スケワの息子たち、祈祷師の仲間が、迷信的に、パウロの見よう見まねを行って、散々な目に遭ったことは、センセーショナルな結果を惹き起こしました。エフェソのキリスト者たちに及ぼした影響です。「信仰に入った大勢の人が来て、自分たちの悪行をはっきり告白した。また、魔術を行っていた多くの者も、その書物を持って来て、皆の前で焼き捨てた」というのです。
しかし、これは、現代の私たちにも、無関係のことではありません。テレビをつけると、「今日のあなたの運勢」などが映し出されています。このようなものが、私たちの信仰生活に入り込んでくるのを、防がなければなりません。エフェソの教会の信徒たちは、自分たちの心の中に、“魔術を求める思い”があることに、気付かされたのです。そして、その罪の思いを告白し、隠し持っていた魔術の手引書を持って来て、皆の前で、焼き捨てたのでした。そして、著者ルカは、「主の言葉は、ますます勢いよく広まり、力を増していった」と、記しています。私たちも、私たちを通して働かれる神を信じて、歩み続けたいと願っています。

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