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御国を祈り求める

御国を祈り求める
大坪章美

ルカによる福音書 12章 22-32節

福音書を書きましたルカは、「それから、イエスは弟子たちに言われた」と書き始めています。イエス様に従った弟子たちは、職業も財産もすべて捨て、あるいは家族の絆さえも断ち切って、来ていたのでした。ですから、彼らの生活が、度々窮地に陥ったことは想像に難くありません。弟子達は、今夜寝る場所の不安もあったことでしょう。明日の食事が頂けるかどうかの心配もしたことでしょう。基本的な生活を維持できるかどうかの不安、思い煩いが弟子達にはあったのです。

このような弟子たちに対して、イエス様は言われました、「命のことで、何を食べようか、体のことで何を着ようかと、思い悩むな。」と、仰ったのです。主の働きに召された弟子たちが、自分の生活のことで思い煩ってはいけないと、言われているのです。何故ならば、弟子達は、主の働きに召された者たちだからなのです。

イエス様は、ここで、被造物の中から二つの例を挙げて、被造物自身に代わって、神様が生活の配慮を引き受けられ、それによって被造物自身は、命の思い煩いから解放されていることを証明なさるのです。

まず、一つ目の例は、鳥です。鳥は種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たないのに、神様は、鳥を養ってくださると仰っています。そして、「あなた方は、鳥よりも、どれ程価値があることか」と、言われました。「鳥をも養ってくださる神様が、永遠の御国を受け継ぐ者である主の弟子たちを、見捨てられるようなことはないではないか」と、言われて、思い煩いから解放させようとなさるのです。次にイエス様は、二つ目の譬えを話し出されます。27節です、「野原の花が、どのように育つかを考えて見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾っていなかった」と仰るのです。今日は、野に咲いていて、明日は炉に投げ込まれる野の花でさえ、栄華を極めたソロモンの服以上に、美しい装いを神様が用意して下さっていることを考えれば、それ以上のことをあなたがたにも、用意して下さらないことがあろうか、と仰るのです。

これ程、イエス様の細やかな呼びかけを受けた弟子たち、そして信者たちは、神様の愛に目覚め、信じ、新たな力で満たされたことと思うのです。然し反面、目の前の現実に目を奪われる弟子たちは、現に、この夜、明日朝のパンを焼く小麦も底をつき、寒さをしのぐ上着にもこと欠いて、イエス様のお言葉を信じきれない不安も、心に残ったかも知れません。信じる心と、信じきれない思いが、心の中に同居し、揺れ動いていたことと思われます。そのような弟子たちの心をご覧になったイエス様は仰るのです、「信仰の薄い者たちよ。あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと、考えてはならない。また、思い悩むな」と言われます。信仰の少ない者は、問題が生じた時に、正面から取り組むことができません。・・逃げるか、避けるか、考えようとしなくなるか、という行動になります。そして、それには理由があるのです。その理由とは、「自分の力で、それを解決しようとするから」なのです。自分の能力、自分の知識の範囲内で問題を解決しようとしますと、自分の能力を超えた問題に直面した場合、もう思考が止まり、思い煩うしかなくなるのです。

然し、信仰の多い者はそうではありません。彼らは、神様にお委ねして問題を乗り越えて行きます。イエス様は仰っています、31節です、「ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらの物は加えて与えられる」と命令されています。「ただ、とにかく」、「神の国を求めなさい」と仰います。私達は“主の祈り”を思い起こします。「天にましますわれらの父よ、願わくば御名を崇めさせ給え。御国を来らせたまえ」と祈ります。この二番目の祈りが、「あなたの御国が来ますように」と、神の国の到来を祈り求めているのです。弟子達の唯一の願いは、自分達の意志を押し通すことではなく、神様のご支配を乞い願うのです。神様にお委ねするのです。そしてその時に、神様は弟子達の思い煩いを克服して、解放して下さるだけではなく、その生活の全てを、神様の為に生きるように、整えて下さるのです。

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