過去の説教

神の内に生き歩む

神の内に生き歩む
土橋 修

ヨハネの手紙一 2章 1-6節

今日の礼拝は「顕現祭」当り、異邦人三人の博士がナザレを訪ね、降誕の主を祝った記念日で、クリスマスの後祭りとも呼ばれる日です。

この1月6日は、個人的思い出ですが、私と家内が五味牧師の誘いで聖地旅行に上った旅の始めを追想させます。25年前の正月始めの旅行はエジプトから始まり、4日は家内の誕生日をその名もシナイという名の港町ホテルで祝って貰いました。6日はシナイ山登山を午前2時すぎに始め、山頂で日の出を拝し、下山した所で聖カタリナ修道院のクリスマスの鐘の音に迎えられ、エルサレムに上り8日観光先で、天皇の死のニュースを耳にし、昭和から平成への変化を知らされたのでした。

さて、テキストの始め「わたしの子たちよ」の呼びかけは、教会と著者の間の暖かい主の交わりを感じさせます。今は既に年老いた使徒ヨハネが、老若男女各層の信徒をひとことで、このように呼べるヨハネの深い愛の心が感じ取れます。しかし、その親しくいとしい呼び名は単純に生れるものではないことを、続く「罪」のことばで、心ひき締めらされます。始めからわたしたちは「よい子たち」ではなかったのです。その罪の深さについては、パウロのことばが浮かびます。ローマ7:21-25「善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます」「内なる人は神の律法を喜ぶが、五体の内にある罪の法則」にとりことせられる「惨めな人間」等々。

ここでヨハネの心に浮かぶのはイエス・キリストの御姿です。「たとえ罪を犯しても」とは、イエスの十字架の絶対的な確かさを強調するものです。「全世界の贖罪」と形容する所以です。「神の掟を守る」は形式によらず、その真意を汲むことにあります。「神を愛し、隣人を愛する」が「掟」の心とイエスも語っている所です。それこそが「神を知る」の心です。それがまた「人の内」に神の愛を結ぶことなのです。

「神の掟を守る」は「神の言葉を守る」ことであり、共に「真理」と「愛」の実現を見る道です。「守る」のことばはヨハネの愛用語とも言われますが、それは生活の中に常時活かされるべきことを意味します。4節以下に「人の内に」「神の内に」と繰返される表現には、ヨハネの深い信仰の程が読まれます。パウロ流には「今は神を知っている。いや、むしろ神から知られているのに」(ガラテヤ4:9)に匹敵する句かも知れません。ヨハネの言うところは、単なる人間の頭脳的知恵・知識による宗教観に終りません。むしろ逆説的のようですが、「人の内に」と「神の内に」とが、また「神を知る」と「神に知られる」とが一つとなる不思議な世界が、わたしたちのキリスト信仰なのではないでしょうか。

要するに、神の遣わされた罪の贖い主としてのイエスの受肉こそ、真理にして神の掟の真意にほかならないとヨハネは告げるのです。「神の内にいる」というころは、常日頃生活の営みとして、生活の業として、神の愛の実践に生きることだと言うことなのです。本書4章12-13にも「わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまって下さり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。・・・・わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまって下さることが分かります」とあります。

上記の所では「とどまる」と繰返し出て来ますが、そこに停滞・静止してしますことではありません。2:6では「神の内にいると言う人は、イエスが歩まれたように自らも歩まなければなりません」とあります。積極的に愛に生き、感動し悔改め、また愛に立ち帰らねばなりません。歩くとはそういうことなのです。幼児が這い歩きから立ち、歩き始める時の喜びを、わたしたちも信仰の歩みに日々見出していきたいものです。

信仰の内なる喜びが生み出す、信仰生活を活発に歩きたいのです。たとえ老いても、「鉢に咲く梅一尺の老木かな」(鳴雪)の句に詠われるように、盆栽の小さい一尺の老木でも、見る人に力を感じさせるのです。主に在る「わたしの子たちよ」シャローム。

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