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感謝して受け入れる

感謝して受け入れる
大坪章美

テモテへの手紙一 4章 1-4節

テモテへの手紙一は、1:1節にありますように、差出人がパウロで、受取人がテモテという形をとっています。この手紙が書かれた頃には、テモテは30歳位にはなっていたと思われますが、パウロは、この手紙でテモテに対し、教会生活の秩序と、異端の教えから教会を守ることを繰り返し語っているのです。三章の終わりでは、キリスト賛歌を高らかに歌い、地上においてあまねく神の支配が訪れることを予告しながら、4:1節では、「しかし」と、愛弟子テモテには、注意を喚起しようとしています。何故なら、パウロの時代には、グノーシス主義者という異端の教師が現われていたからです。それは、この手紙の結びの部分に明確に記されています。6:20節です、そこには、「俗悪な無駄話と、不当にも知識と呼ばれている反対論とを避けなさい。その知識を鼻にかけ、信仰の道を踏み外してしまった者もいます。」と書き記しています。パウロが警戒しましたのは、この異端の教師たちの極端な禁欲主義でした。3節で指摘しています。「彼らは、結婚を禁じたり、ある種の食物を断つことを命じたりします」と、批判しています。彼らは、自己の業、能力、努力が評価され、それが救いと結び付けられると考えたのです。自分で造り上げた救い、人工的な清さ、なのです。禁欲と律法の業を通して、力づくで神に近づこうとして、救われる権利を奪い取ろうとするのです。禁欲主義と、異端の教えの要求は、「主の恵みによって」という、信仰の最も神聖なものを犯しているのです。異端の教師たちは、「結婚しないこと、ある食物を食べないこと」こそ、救いの道であると、教えていました。

このような異端の教師達の教える禁欲主義を、パウロは真っ向から否定します。3節後半に、「しかし、この食物は、信仰を持ち、真理を認識した人たちが感謝して食べるようにと、神がお造りになったものです」と、記しています。キリストにおいて、神が自由にして下さることを知っている敬虔なキリスト者は、もはや食物と性に関する偽善的な抑制に縛られる必要はないのです。パウロは、その理由を、4:4節で述べています、「というのは、神がお造りになったものは、全て良いものであり、感謝して受けるならば、何ひとつ捨てるものはないからです」と言っています。確かに、モーセの律法は、食物を区別しましたが、キリストの光を経験した私たちは、もはや、何ものも、下等なものとか、汚れたものとは呼ばないのです。使徒言行録10:15節で、天上のイエス様がペトロに向かって、「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」と、命令されたとおりなのです。

詩編79篇は、紀元前587年のバビロニアによるエルサレム滅亡とバビロン捕囚の出来事を詠ったものと言われています。元の言葉を調べますと、13節の最初には接続詞があります。他の聖書では「そうすれば」という言葉を訳しています。「そうすれば、わたしたちはあなたの民」という訳になります。主なる神様が、バビロンに抑留された捕囚の民の嘆きを聞いて下さったら、「わたしたちは、あなたの民」と告白しているのです。「とこしえにあなたに感謝を捧げます」と、喜びを爆発させているのです。詩編79篇の詩人は、「とこしえに、あなたに感謝を捧げ、代々にあなたの栄誉を語り伝えます」と祈りました。そして詩人が、捕囚のイスラエルの民が救われるのは、神に感謝を捧げる為、とこしえに神の栄誉を讃える為でありました。

ここに、パウロがテモテに書き送った手紙との接点が出て参ります。テモテへの手紙第一の4:4節には、「神がお造りになったものは、全て良いものであり、感謝して受けるならば、何ひとつ捨てるものは無いからです」と、記されています。「感謝して受ける」ことが必要なのです。捕囚の民も、神様に感謝を捧げて、捕囚からの解放という救いを得ました。パウロも、異端の教えに屈することなく、どんな食物であれ、感謝して受けることによって、何ひとつ捨てるものは無いと確信したのです。私たちは今週も、さまざまな出来事に遭遇することでしょう。私達が、感謝して受けることによって、神様は、良いものを与えて下さいます。

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