過去の説教

礼拝の命への招き

礼拝の命への招き
土橋 修

コリントの信徒への手紙第一 11章 17-22節

「世界聖餐日」(10月第一主日)は1936年に米国で制定されたプロテスタントの記念日で、日本には56年に導入されました。趣旨は世界の教会がこの日、揃って一つ聖餐に与ることで、教会は一つ救いは一つの、主の恵みを確認するためでした。残念ながら、当時聖餐式は年数回、不定期に行なわれていたため、とりあえず年一回は一斉に行おうとの訴えだったのです。

教会の礼拝は、主の復活を機にイエスの贖罪の死を記念して始まりました。礼拝の様式はユダヤ教のそれに似かよいながら、独自のものが生まれました。日取りは「週のはじめの日」即ちイエスの復活日。呼び名は「主の日」となりました。礼拝は神の子イエスを「主」と呼び、その犠牲による救いに対する感謝と賛美と祈りに満たされるものでした。主の命じられた晩餐を共にしながら礼拝が守られていました。

時を経た今、コリントの教会に異変が起こったことをパウロは憂えています。礼拝が初めの姿と余りにも変わってきたからです。口をついて出たことばは「指示(命令)」とあります。堅苦しく厳しい響きです。次いで「ほめるわけにはいかない」です。22節にも繰り返されて出て来ますが、パウロの嘆きの程が読み取れます。

パウロは彼らの中にある仲間割れに気付くからです。しかもそれを晩餐が中心の礼拝の中に見たのです。悲嘆の大が察せられます。そこで「まず第一に」と指示に入ります。ところが、第一にと言いながら第二・第三は出てきません。事は主の晩餐礼拝に終始することになるのです。「一事が万事」と言いたいところです。教会は信仰を中心にした兄弟愛の交わりなのに、肝心の聖晩餐の中で、豊かな者が先に食べ、貧しい者が後になる差別が生じるのでは、主の聖餐どころか己が聖餐に崩れてしまうのだと指摘するのです。

既に1章10節以下でパウロは、コリント教会に於ける党派争いのあることを指摘しています。「一事が万事」はここ聖餐式の秩序崩壊にも現れていることを明らかにしています。そして、聖餐本来の趣旨は教会の土台であり信仰の命の外ならないのです。それだけにパウロの嘆きの大きさ、深さが思い知らされるのです。

19章の「だれが適格者か」の「適格者」は、「本当の者」とか「是とせられた者」「正しい者」の意です。1章でのリーダー選びも、人間同士の選別ならいざ知らず、「パウロに」「アポロに」etc.は未だしも、「キリストに」までもが、その候補に並び呼ばれるようになるところに、コリント信徒の信仰の問題が問われるのは当然です。キリストを分派の一候補者と見なし、紛争する所に一大誤りがあるのです。基本的誤りは全体の諸々にまで誤りをもたらすことになります。コリント教会が問題多い教会とされたのも、信仰の基本、礼拝の根本義に於いての脱線が生んだ結果でした。開拓伝道者パウロとしては、そのような信仰を説いた筈ではなかったのです。だからパウロは初めに「ほめるわけにはいかない」と言い、終りに又々「ほめるわけにはいかない」と悲嘆を繰りかえさざるを得なかったのです。

彼の訴えは怒りをも含んでいます。22節で「あなたには飲食する家はないのか」とさえ言っています。ここでは感情的に見えますが、そうではなく、教会と言う「神の家」を持つ信徒には、信仰生活の砦(とりで)としての教会があることを気づかせてくれています。主日ごと教会という家に帰って、礼拝に臨み、神のことばを聞き、心癒され、新しい光と力を得て、我が家にそして社会の活動に送り出されて行くのです。

パウロの怒りは己が晩餐を勝手に行う者たちにも向けられます。「神をみくびるなかれ」「貧しい人々に恥をかかすなかれ」と。彼らは聖餐の心、命がどこにあるのかをよくわきまえないのです。そうでなくては、どうしてこのような勝手な食事をするのか、どうして兄弟姉妹を差別出来るのかと訴えるのです。

聖餐はあくまでも、イエスの贖罪の犠牲を証しする出来事です。それは礼拝と別個の儀礼・祭りごとではありません。礼拝は日曜(主日)に行います。わたくしたち罪人の贖いとして「神の子」の身命を捧げて下さったイエスを、キリスト(救い主)として、仰ぎ拝し従い仕えることを契うものだからです。

アウグスチヌスは「犠牲は見える礼典である。見えない犠牲の聖なる表徴(しるし)である」と申します。この行為の中に救いが伝えられているのを、信仰の目を通して見取ることが礼典の目的なのです。

ルターも宗教改革のはじめ、聖餐式(ミサ)を尊重していました。彼は「大胆な革命主義者と賢明な保守主義者」と呼ばれていた人です。問題は形式化と習慣化がこれを受ける者の心を弱らせ、その命の尊さを否めさせてしまう事です。語る福音の言を正しく耳に聴くように、執行される聖餐の儀式を正しく目で見、主への信仰に迫りたいのです。霊とまことの心で。

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