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私の弁護者 救い主

私の弁護者 救い主
大坪章美

テモテへの手紙一 2章1-7節

ヨブ記の主人公ヨブは、ウツの地に住んでいたと記されていますが、神に仕え、幸せな生活を送っていました。ある時、天上の会議で、神様がサタンに、ヨブのことを、「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を退けて生きている。地上に、彼ほどの者はいまい」と言われたところ、サタンは、「ヨブが利益も無いのに、神を敬うでしょうか」と反論するのです。そして、神様に、「彼の財産に触れてご覧なさい。面と向かって、あなたを呪うに違いありません」と提言するのです。ヨブの信仰の固さを知っておられる神様は、サタンがヨブを試すことを承諾なさるのです。それからというもの、罪もないヨブが、突然、次々と災いに見舞われるのですが、依然としてヨブは、罪を犯しません。7人の息子と、3人の娘を失くし、牛も羊も、らくだも奪われてしまい、そして、召使いたちまでもが、一人を残して殺されてしまったのです。ヨブは、悲しみに打ちひしがれましたが、それでも神を非難することはありませんでした。サタンは、今度は、「ヨブの骨と肉に触れてごらんなさい。」と、主なる神様に、ヨブの体を痛めつけることを提言して、命だけは奪わない、という条件付きで同意を得たのです。たちまち、ヨブは、頭のてっぺんから足の裏まで、ひどい皮膚病に罹りました。彼は灰の中に座って、素焼きのかけらで体中をかきむしったと記されています。そして、それでも、唇をもって罪を犯すことはなかったというのです。ただ、ヨブは、自分の正しさだけは主張し続けるのです。

そして、何よりもヨブに打撃を与えたのは、16章17節、「わたしの手に不法もなく、わたしの祈りは清かったのに」という思いです。この残酷な神の試練は、ヨブにとって、不可解な謎であって、信仰の有無の問題となる傷なのです。この傷が、ヨブを、自分に対して不可解な態度をとる神に敵対させ、ヨブは、自分の信仰のために、神に対して、自分の立場を擁護しなければならない、という思いにさせているのです。

このような、ヨブにとっての問題は、ヨブ自身が、自分の事件を、もはや自分では弁明できなくなった時に、神様が、ヨブに代わって弁護して下さることなのです。ヨブは、この問題を、19節で明確に、信仰告白として表します、「天には、わたしのために、証人があり、高い天には、わたしを弁護して下さる方がある。」と言っています。神が、ヨブの潔白を証明して、弁護して下さることを、信じて疑わないのです。

ヨブが、自らの弁護人として、主なる神に望みを託したのと同じように、パウロも、「神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただお一人なのです」という言葉を残しています。これは、紀元2世紀の初めに、著者名をパウロとして、愛弟子テモテに宛てて書かれた手紙、テモテへの手紙第一の2章5節に記されたパウロの言葉なのです。パウロは、ここでテモテに対して、執り成しの祈りについての教えを語っています。「願いと祈りと、執り成しと感謝」を、全ての人々のために捧げなさい、と勧めているのです。4節には、「神は、すべての人々が悔い改めて、救われることを望んでおられる」という、パウロの言葉がありますが、5節以下では、その根拠が述べられています。「何故なら、神は唯一です。そして、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは、人としてのキリスト・イエスです。」と言っているのです。イエス・キリストは、ご自分の命を、罪のために死に陥っていた人間のために、身代わりの贖いとして与えられたのでした。ご自分の命を捧げることによって、人間を神と和解させた仲介者なのです。このようにして、イエス・キリストは、ご自分の命をもって、全ての人間の罪の贖いとなられ、また、人間と神との間の仲介者となられました。私達は、このイエス・キリストの救いの御業の中に、ウツの住人ヨブが、苦しい息の下から確信を持つに至った、ヨブの為の天におられる弁護人の姿を見ることができるのです。ヨブが瞼の裏に見た、高い天におられる弁護者、ヨブの潔白を証明して下さる方の役割を、ご自分の命を代償として人類の罪を贖って下さったイエス・キリストの御業の中に、見ることが出来るのです。

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