過去の説教

命の木に至る道

命の木に至る道
大坪章美

テモテへの手紙二 1章6-14節

ここは、エデンの園です。主なる神様は、自ら造られたアダムをこの園に連れてきて、ここに住まわせ、そこを耕し守るようにされたのです。そして、主なる神様は、アダムに命じられました、「園の全ての木から取って食べなさい。但し、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」と言われたのです。然し、蛇に唆されたエバは、誘惑に負けて、善悪の知識の木から実を取って食べ、アダムにも渡したので、アダムも食べてしまいました。主なる神様は、アダムに向かって罪の宣告をなさるのです。17節です、「お前は女の声に従い、取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった」と宣告されました。

アダムの罰は、今や、彼が一人で営んでいかなければならない生活の苦労と、乏しさの中にありました。何故なら、主なる神様は、呪いを、アダム自身には降されませんでしたが、より深く、すべての人間存在の最も下にある生活基盤、男の活動の最も基本的な領域、すなわち、土に呪いを降されたのでした。そして、二つの生活、ひとつは、草原で野の植物を採取する生活、もうひとつは、土を耕して収穫を得る農民の生活、この両方に共通なこととして、いずれの場合も、最後には、「共に、人間が大地に返る、塵に返る」という表現で、“死ぬべき運命”にあることを表現されたのです。

時代は全く変わりますが、紀元百年頃に、パウロの名で書かれたテモテ宛の書簡があります。そのうちのひとつが、パウロの遺言のような形式で書かれたテモテへの手紙?です。パウロは、1:6節でテモテに対して忠告をしています。「わたしが手を置いたことによって、あなたに与えられている神の賜物を再び燃え立たせなさい」と記しています。8節では、「だから」と、言葉を繋いでいます。つまり、“力と愛と思慮分別の霊”を受けているのだから、主を証することも、パウロが主の囚人であることも、恥じてはならない、と言っているのです。「主を証すること」の“証”という言葉は、「殉教」という意味も持っています。パウロは今、皇帝の捕らわれ人として牢に繋がれており、裁判も進んでいました。テモテへの手紙?の4:6節には、パウロの覚悟が記されています。そこには、「わたし自身は、既にいけにえとして捧げられています。世を去るときが近づきました」と記されているのです。このように、自分の殉教を目前にしたパウロにとって、「キリストは、死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現してくださいました」と記すときに、どんなにか、深い慰めとなったことでしょう。パウロは、コリントの信徒への手紙?の15:2節以下で、福音について記したことがありました。そこには、「あなたがたは、この福音によって救われます」と記されており、最も大切なこととして、「キリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり、三日目に復活したこと」と記されているのです。
今日、最初に読みました創世記の3:23節にありますように、主なる神様からエデンの園の外へ追放されたアダム以降、人間は土に返る運命を背負うようになりました。エデンの園からの追放という出来事が無ければ、アダムやエバも永遠に生きる者になる可能性があったことを示す聖書の個所があります。22節の後半です、そこでは主なる神が、「今は手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある」と言っています。そのために、主なる神は、アダムをエデンの園から追放されました、24節には、「こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムときらめく剣の炎を置かれた」と記されています。アダムやエバが永遠の命を失ったのは、命の木に至る道を警護するものたち、ケルビム、剣の炎、これらのものたちに抗うことが出来なかったからなのです。そして、イエス様が十字架上で死んでくださって、三日目に復活して下さったのは、その出来事を通して、人間に、再び命の木へ通じる道を開いて下さったことに他ならないのです。

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